村田耕一
村田 耕一(むらた こういち、本名:村田 清照(むらた きよてる)、昭和14年(1939年) - 平成18年(2006年)11月7日)は、日本のアニメーター。アニメ作画スタジオ有限会社OH!プロダクション(オープロダクション)代表取締役。新潟県出身。
経歴[編集]
昭和45年(1970年)5月塩山紀生、小松原一男、米川功真と共にOH!プロダクション(以下、OH!プロ)を設立する。OH!プロでは、東映動画班と東京ムービーの子会社であったAプロダクション班(現在のシンエイ動画の前身)に分かれて二社の作品を製作していたが、村田はAプロ班の中心アニメーターとして、原画、作画監督などを務め、多くの作品に取り組んだ。また、OH!プロ代表取締役として同社の経営に当たった。
村田はAプロ班のアニメーターとして同社の作品にかかわる中で、高畑勲、宮崎駿らと深い関係を築き、二人の作るアニメ映画やテレビアニメに参加し、作画監督として活躍した。また、OH!プロが『セロ弾きのゴーシュ』を制作するに当たっては、高畑に監督を依頼し、自らはプロデューサーとして製作に当たった。
多くのテレビ・劇場作品の作画を手掛け、高い作画力を誇るスタジオとしてOH!プロを率い、後続を育成した。
温厚な人柄で、年齢性別問わず、誰からも愛される人格者であったため、有限会社OH!プロダクション自体も各業界からの信頼を得ていた。
アニメーション事業者協会副会長を務め、杉並アニメ振興協議会の活動にも積極的に参加するなど、業界全体の発展にも大きく貢献した。
平成18年(2006年)11月7日午後9時2分クモ膜下出血のため、東京都三鷹市の病院で死去した。67歳。
主な参加作品[編集]
テレビアニメ[編集]
- 巨人の星 (1968年-1971年)原画
- タイガーマスク (1969年-1971年)作画監督
- アタックNo.1 (1969年-1971年)作画監督
- ルパン三世 (第1期:1971年-1972年)原画
- 赤胴鈴之助 (1972年-1973年)作画監督
- 荒野の少年イサム (1973年-1974年)作画監督
- アルプスの少女ハイジ (1974年)作画
- 母をたずねて三千里 (1976年)作画
- ピコリーノの冒険 (1976年-1977年)作画監督
- シートン動物記 くまの子ジャッキー (1977年)作画
- 未来少年コナン (1978年)原画
- ペリーヌ物語 (1978年)作画監督
- 赤毛のアン (1979年)原画
- 家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ (1981年)作画監督
- 南の虹のルーシー (1982年)作画監督
- アルプス物語 わたしのアンネット (1983年)
- 牧場の少女カトリ (1984年)
- 愛少女ポリアンナ物語 (1986年)原画
- 小公子セディ (1988年)原画
- ちびまる子ちゃん (第1期:1990年-1992年/第2期:1995年-)原画
- 名犬ラッシー (1996年)原画
- 中華一番! (1997年-1998年)原画
- 無人惑星サヴァイヴ (2003年)
- それいけ!アンパンマン うたおう!おどろう!みんなのクリスマス (2006年、TVスペシャル、原画)
OVA[編集]
- デビルマン 誕生編 (1987年)プロデューサー
映画[編集]
- パンダコパンダ (1972年)原画
- パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻 (1973年)原画
- セロ弾きのゴーシュ (1982年)製作
- はれときどきぶた (1988年)製作
- ドラえもん のび太とふしぎ風使い (2003年)原画
- ドラえもん のび太のワンニャン時空伝 (2004年)原画
- あらしのよるに (2005年)原画