木下俊懋

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木下俊懋
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永元年8月2日1772年8月30日
死没 文政5年7月3日1822年8月19日
改名 千勝、俊茂、俊懋
戒名 謙徳院
墓所 大分県速見郡日出町の松屋寺
官位 従五位下主計頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
豊後日出藩
氏族 木下氏
父母 木下俊胤木下俊泰養女於久
兄弟 俊懋堀直方正室、横山知雄正室、
高井常房室、山崎義徳正室、
溝口直清正室、小笠原信成正室
太田資愛
ウメ、歌
俊賢俊良俊敦吉川経礼正室
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木下 俊懋(きのした としまさ)は、豊後国日出藩11代藩主。官位は従五位下、主計頭。

経歴[編集]

日出若宮八幡神社に寄進した鳥居

幼名は千勝。初名は俊茂。安永5年(1776年)、俊胤の死により跡を継いで日出藩11代藩主となった。天明2年(1782年)5月に俊懋と改名した。寛政6年(1794年)には日出若宮八幡神社に鳥居を寄進した。

藩政においては藩財政が悪化したり、藩主の早世などが相次いで混乱していた藩政を再建するため、殖産興業政策や塔ノ平池の治水工事、藩校である稽古堂の創設や製紙産業の育成に努めている。文化7年(1810年)3月10日、次男の俊良に家督を譲って隠居し、文政5年(1822年)7月3日に51歳で死去した。法号は謙徳院。墓所は大分県速見郡日出町の松屋寺。

系譜[編集]

父母

正室

側室

  • ウメ

子女