山本恪二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

山本 恪二(やまもと かくじ、大正4年(1915年2月18日 - 平成12年(2000年)3月5日)は、昭和から平成期前半の彫刻家京都市立美術大学名誉教授。

略歴[編集]

山本恪二は、大正4年(1915年)2月18日滋賀県に生まれ、旧制中学2年の時にギリシャ彫刻の写真を見て、彫刻家になることを志したと言われる[1]。昭和8年(1933年)東京美術学校彫刻科彫塑部に入学した[1]

昭和15年(1940年)第5回新制作派展に初入選するが、戦争に徴用される。戦後実家に戻り昭和22年(1947年)から同24年(1949年)まで京都美術専門学校(京都市立美術大学前身)、昭和25年(1950年)から昭和55年(1980年)まで京都市立美術大学、その後大手前大学神戸山手女子短期大学芸術科で彫刻の指導を行った[1]。なお、この間昭和33年(1958年)から同35年(1960年)までパリに留学(パリ・エコール・デ・ボザール)しマルセル・ジモンとユーベル・ヤンセンに就いて学んだ[1]。広く学生に慕われ門下生だけで200人以上に及ぶと言われ、昭和41年(1966年)から亡くなるまで280点の作品が確認されている[1]。平成12年(2000年)3月5日クモ膜下出血により急逝したが、その直前まで彫刻の制作と指導に当たっていた。

昭和55年(1980年)4月京都市立美術大学を定年退職後、同大学より名誉教授号を授与された(京都市立美術大学ホームページ 京都市立美術大学以後名誉教授授与一覧より)。生前山本は彫刻について「私にとって彫刻とは生きたモデルから何か未知の自然の構造の神秘を探り出す事であり、その時の愕きが私の生き甲斐なのである。此の発見の蓄積は外国語を学ぶのに似て、その効果は直ちには目立たないが長年月の間に別人の様な能力が身に付いて来るものだ。だから此の先どんなに老い込んでもモデルに就くことは止められないだろう。[2]」と彫刻の魅力を語っていた。

関連事項[編集]

著作書籍
  • 「京都市立芸術大学美術学部研究紀要(通号16) 1971年」 P49「「仕上げ」の問題をめぐって」の項(京都市立芸術大学美術学部)
  • 「京都市立芸術大学美術学部研究紀要(通号23) 1978年」 P9「描写について」の項(京都市立芸術大学美術学部)
  • 「京都市立芸術大学美術学部研究紀要(通号24) 1979年」 P1「現代美術におけるフォルムの問題」の項(京都市立芸術大学美術学部)
  • 「三彩(通号428) 1983年5月」 P51「首のモデルになった頃」の項(三彩社)
  • 「大手前女子大学論集(通号22) 1988年」 P111「立体の話」の項(大手前女子大学)
山本恪二に係る書籍
  • 「神戸山手女子短期大学紀要(45) 2002年」 A1「山本恪二遺作展及び作品集(YAMAMOTO KAKUJI 1915-2000)の為の基礎資料とその作成の経緯等について 松下幸夫」(神戸山手女子短期大学)
  • 京一中洛北高校同窓会. “会誌 あかね25号 表紙「表紙の浮彫について」山本恪二”. 2013年7月25日閲覧。
作品

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e 「神戸山手女子短期大学紀要(45) 2002年」 A1「山本恪二遺作展及び作品集(YAMAMOTO KAKUJI 1915-2000)の為の基礎資料とその作成の経緯等について 松下幸夫」(神戸山手女子短期大学)
  2. ^ 「あかね第25号 昭和62年11月1日」 表紙「表紙の浮彫について 山本恪二」(京一中洛北高校同窓会)
  3. ^ 公益財団法人 湯川記念財団. “湯川記念財団ホームページ 湯川博士の胸像”. 2013年7月21日閲覧。