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山崎方代

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右左口宿にある生家跡地の記念歌碑(2011年4月撮影)

山﨑 方代(やまざき ほうだい、1914年大正3年)11月1日1985年昭和60年)8月19日)は、日本の歌人

略歴

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出生から右左口村時代

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方代故郷の旧右左口村付近。右左口峠付近から北西望 正面奥は八ヶ岳

山梨県東八代郡右左口村(現・甲府市右左口町)に生まれる。父は龍吉(たつきち)、母は「けさの」[1]。8人兄弟の末っ子で次男。方代が生まれた時には母が48歳、父は60歳をとうに越していた。霜のきびしい朝であったそう。長姉で22歳差の「くま」と4歳差の姉「ひでこ」以外の子を亡くしていた両親は「生き放題、死に放題」 から『方代』と命名。

1920年(大正9年)5月には姉「くま」が結婚し、神奈川県横浜市の關家に移る[1]1921年(大正10年)4月、方代は右左口尋常高等小学校(現・甲府市立中道南小学校)へ入学する[1]。卒業後は実家の桑畑山仕事を手伝う[2]。そしてこの頃に姉ひでこが右左口を出て方代は両親と3人暮らしとなった[3]

1929年(昭和4年)3月、方代は小学校を卒業する。右左口村では1928年(昭和3年)に正岡子規の門下生であった遠戚、田中鶏助の倅である田中睦男が中心となった歌会「地上」が発足し、方代は1932年(昭和7年)に最年少で入会する[3]。2月頃の第三回歌会に1首(号、山崎一輪)出詠。(現在判明している方代最初の短歌) 号の 『一輪』という名は山竜胆の澄んだ紫の一輪を好んでいた事に由来する。

1934年(昭和9年)には『山梨日日新聞』新年文芸において佳作に入選[1]。同年には徴兵検査において甲種合格するが、この頃には父は酷い老眼、母は白内障で失明、と両親が眼病を患っていたため、兵役免除となる[3]

1935年(昭和10年)には田中達馬の紹介で「あしかび」に入会する[1]1936年(昭和11年)には「あしかび」をはじめ「水甕」や山下陸奥の主催する「一路」などの結社誌に詩や短歌を発表している[4][1]。同年11月5日には三枝常盤邸で開催された一路山梨支部創立歌会に参加している[1]。同年には右左口村青年団文芸部長となり、『ふたば』の編纂にも関わっている[2]

横浜転居と出征

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1937年(昭和12年)1月24日にも一路山梨支部新年歌会に参加し、1月末には東京に山下陸奥を訪問している[1]。8月1日から8月2日には山梨県の山中湖畔で「一路」懇親大会が開催され、方代も参加している[4]。11月25日には母の「けさの」が死去 (享年69歳) し、方代は眼病を患う父とともに、神奈川県横浜市浅間町で歯科医院を営んでいた姉の關家に引き取られる[1][5]

方代の横浜転居時期は1938年(昭和13年)1月とされているが、右左口村出身で右左口尋常高等小学校時代に方代と同級生であった武田保重旧蔵の写真「山崎君離郷記念 十三・二・五」には、昭和13年2月5日の日付が記されている[5]。武田保重は自身も山梨日日新聞川柳を投稿している人物で、写真は方代が右左口生年団文芸部の仲間とともに撮影した記念写真であると判断されている[5]。写真の日付から方代は昭和13年2月には右左口村で身辺整理を行い、2月5日に記念写真を撮影し、2月6日に甲府信用組合楼上で開催された一路山梨支部新年歌会に出席し、3月頃までに横浜への転居を完了したと考えられている[1][5]。横浜へ転居した後は古川電線株式会社 (後の古河電工工業株式会社)に勤める。 姉、くまが自立しない方代を心配して職場を見つけ、毎日お弁当を作って勤めに出したそうだが、方代は浅間台に登って時間を潰し、お弁当を食べて夕方帰ってくるという具合だった[6]。結局、古川電線はすぐに辞めてしまってその後は読売新聞社や神田の本屋と職を転々とした[3]

1941年(昭和16年)7月19日に臨時召集され、千葉県高射砲第2連隊補充隊第2中隊に入営[7]

翌年8月15日に第1中隊の一等兵として出征し、高雄港シンガポールジャカルタ港を経由し、1943年(昭和18年)1月29日ティモール島デリーに着く。3月2日クーパン特設高射砲第1中隊へ転属と同時にラウテンを出発[7]

「クーパンおよび飛行場附近の防空警備」中に敵国の攻撃で右目を負傷する。その後、6月6日クーパン第109兵站病院に入院[7]。4回転院し、12月21日に治癒退院。戦地に復帰する[3]。「片眼があればまだ役に立つとて再び戦地にやられる。(方代談)[3]

1944年(昭和19年)1月12日 父、龍吉没。享年94歳[3]

2月1日、特設高射砲中隊要員として山砲兵第48連隊に転属。同日、連隊本部に編入。7月22日、第1中隊に編入。8月1日、上等兵に進級[7]

1945年(昭和20年)1月1日より濠北地区防衛第1号作戦に参加。(~3月19日) 2月20日、第5中隊に編入。3月20日より輝第3号作戦に参加。(~8月14日)6月24日、第48師団第1野戦クーパン患者療養所に入院。7月24日、治癒退院。8月15日、終戦[7]。11月18日、台湾歩兵第2連隊第3大隊へ転属[3]。12月1日兵長に進級[7]

1946年(昭和21年)5月28日、召集解除[7]。病院船で帰還。横浜市戸塚区の海軍病院に1週間入院の後新宿区戸山の国立第一病院に転院。年の暮に退院[3]

戦後の活動

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1946年(昭和21年)6月には復員し、傷痍軍人の職業訓練で習ったの修理をしつつ各地を放浪する。「一路」における活動も再開し、1947年(昭和22年)5月15日には山下陸奥を故郷・右左口村へ案内している[8][1]

戦後は筆名に本名の「方代」を用いた[8]1948年(昭和23年)6月には「一路」から離脱し、同年10月に山形義雄・長倉智恵雄・芝山永治・岡部桂一郎ら同志と「工人」を創刊し、右左口村に山梨支部をおいた[9][1]

同年には岡部桂一郎の奨めで15世紀フランスの詩人であるフランソワ・ヴィヨンFrançois Villon)の『ヴィヨン詩鈔』(鈴木信太郎訳、1948年、全国書房)を購入し、同書を読み込んでいる[10]1949年(昭和24年)には山梨県から静岡県大阪府和歌山県までの長期の放浪を行っている[9]。1950年(昭和25年)には横浜へ戻る[9]

1954年(昭和29年)には岡部桂一郎・山形義雄ら「工人」同志と「黄」を創刊する[11]1949年には宮柊二(みや しゅうじ)が主導して岡部桂一郎・金子一秋・葛原繁ら「泥の会」の活動から同人誌「泥」が創刊され、方代は同誌にも短歌を寄せている[11]

第一歌集『方代』と合同歌集『現代』

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1955年(昭和30年)には山上社から第一歌集『方代』を発表。1971年(昭和46年)には「寒暑」を創刊。

1964年(昭和44年)11月には短歌新聞社から合同歌集『現代』が刊行された[12]。『現代』には方代のほか大西民子岡野弘彦河野愛子清水房雄長沢一作山崎一郎の和歌150首が収録され、『現代』に収録された方代の和歌は第二歌集『右左口』にも収録された[12]。甲府市寄託・山崎方代旧蔵資料には『現代』収録短歌150首の記されたノートが含まれており、旧仮名使い現代仮名遣いに統一され、推敲作業により一部の句は表現を変えている[12]

晩年

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瑞泉寺


1965年(昭和40年)9月1日 姉、くまが死去。(享年71歳) 当時は関歯科医院で技工士として歯の詰め物等を製作していたが、没後直ぐに姉の毛布と位牌を掴んで關家から去った。その後は色々な家に居候して暮らしていたが、ふらりと關家を訪れる度に「今度オレの事が黒澤明監督の映画になるんだよ」「映画は高峰秀子主演なんだ」と大きな夢を語っていたそう[6]

1972年(昭和47年)7月から神奈川県鎌倉市手広の鎌倉飯店店主宅の一角に用意された4畳半の「方代艸庵」に住む[13][14]1973年には第二歌集『右左口』を刊行する。1974年(昭和49年)には「めし」15首(『短歌』1974年9月掲載)により第一回『短歌』愛読者賞を受賞する[15][16]1978年(昭和53年)には玉城徹により『うた』が創刊され、方代は創刊号から投稿している[17]1980年(昭和55年)11月には第三歌集『こおろぎ』を刊行した[18]。方代はこの頃随筆も手掛け、1981年(昭和56年)には随筆集『青じその花』を刊行している[19]

1984年(昭和59年)11月には山梨県東山梨郡牧丘町(現・山梨市牧丘町)を訪れ、最後の山梨旅行となる[16]。同年12月には肺がんと診断された。

1985年(昭和60年)1月11日、藤沢市民病院に入院[3]。手術を受け入院生活を送る。入院中には1985年1月11日から同年3月18日まで「山崎方代病床日記」を記している[20]。3月18日、同病院にて肺癌摘出手術を受け、戸塚区国立横浜病院(現:独立行政法人国立病院機構横浜医療センター)に放射線治療のため通院する。5月25日に退院。その後、国立横浜病院に通院するも8月6日に同病院に入院する。

8月19日午前6時5分、肺癌による心不全のため71歳で死去[3]通夜告別式神奈川県鎌倉市二階堂瑞泉寺で同月20、21日に行われ、参列者は300余人におよび、本葬は故郷の円楽寺にて同月30日に実施された[3]。戒名は観相院方代無煩居士[21]

1988年(昭和63年)親交のあった大下一真らによって研究誌「方代研究」が創刊される。また、1987年には鎌倉で「方代を語り継ぐ会」が発足し、大下らの手によって、毎年9月の第1土曜に瑞泉寺において「方代忌」が営まれている[20]

特定の結社に属さず、身近な題材を口語短歌で詠んだ。鎌倉に住む歌人吉野秀雄唐木順三とも交友があり、しばしば土産物を携えて訪ねたという。鎌倉の瑞泉寺住職・大下豊道は吉野秀雄と交流があり、方代は吉野を介して大下豊道とも交流している[22]。関係資料は山梨県甲府市の山梨県立文学館に所蔵されており、常設展でも展示されている。また、生家跡地には中道往還の右左口宿や円楽寺など周辺の歴史的景観と合わせた観光拠点とするため、歌碑の移設や東屋を設置されている。

著作

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  • 第一歌集『方代』 山上社、1955年
  • 合同歌集『現代』 短歌新聞社、1965年
  • 第二歌集『右左口』 短歌新聞社、1974年
文庫版 短歌新聞社〈短歌新聞社文庫〉、1992年
  • 第三歌集『こおろぎ』 短歌新聞社、1980年
文庫版 短歌新聞社〈短歌新聞社文庫〉、1992年
  • 選歌集『首』 短歌新聞社〈現代歌人叢書〉、1981年
  • 随筆集『青じその花』 かまくら春秋社、1981年
  • 第四歌集『迦葉』 不識書院、1985年
文庫版 短歌新聞社〈短歌新聞社文庫〉、2003年
  • 選歌集『こんなもんじゃ』 文藝春秋社、2003年 装画:東海林さだお
  • 随筆集『もしもし山崎方代ですが』 かまくら春秋社、2004年

評伝・研究書

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  • 坂出裕子 『道化の孤独 歌人山崎方代』 不識書院、1998年
  • 大下一真 『山崎方代のうた』 短歌新聞社、2003年
  • 田澤拓也 『無用の達人 歌人山崎方代伝』 角川書店、2003年
文庫版 角川学芸出版〈角川ソフィア文庫〉、2009年
  • 阿木津英 『方代を読む』 現代短歌社、2012年
  • 今林康夫 『方代とその作品』 みどり美術印刷、2011年

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.60
  2. ^ a b 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.7
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『山崎方代全歌集』不識書院、1995年9月2日、481-492頁。 
  4. ^ a b 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.8
  5. ^ a b c d 『山梨県立文学館 館報 第45号』山梨県立文学館、2001年6月20日
  6. ^ a b 『方代研究』山崎方代を語り継ぐ会。 
  7. ^ a b c d e f g 山崎方代 兵籍簿
  8. ^ a b 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.12
  9. ^ a b c 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.13
  10. ^ 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.14
  11. ^ a b 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.16
  12. ^ a b c 中野(2011)、pp.12 - 13
  13. ^ 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.34
  14. ^ 主なゆかり文学者 や行”. 鎌倉文学館. 2023年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月8日閲覧。
  15. ^ 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.35
  16. ^ a b 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.61
  17. ^ 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.36
  18. ^ 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.40
  19. ^ 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.44
  20. ^ a b 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.52
  21. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)339頁
  22. ^ 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』、p.45

参考文献

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  • 『山崎方代展』 山梨県立文学館、1994年
  • 『山崎方代展 右左口はわが帰る村』山梨県立文学館、2010年
  • 『資料と研究 第9輯』 山梨県立文学館、2004年
  • 中野和子「山崎方代の合同歌集『現代』推敲ノート」『資料と研究 第十六輯』山梨県立文学館、2011年

関連文献

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  • 大下一真・湯川晃敏 『方代さんの歌をたずねて-芦川・右左口編』 光村印刷、2007年
  • 大下一真・湯川晃敏 『方代さんの歌をたずねて-甲州篇』 光村印刷、2008年
  • 大下一真・湯川晃敏 『方代さんの歌をたずねて-放浪篇』 光村印刷、2010年

外部リンク

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