山内一唯

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山内一唯
時代 江戸時代前期
生誕 慶長5年(1600年
死没 寛文3年6月27日1663年7月31日
改名 吉助(幼名)、一唯
戒名 冷伯院殿釈風残大居士
墓所 埼玉県さいたま市西区中釘の妙玖寺
官位 従五位下伊豆守[1]豊前守
幕府 江戸幕府 書院番
主君 徳川家光
氏族 土佐山内氏庶流 指扇(新橋)山内家
父母 山内康豊、妙玖院
兄弟 与祢、忠義、慈教院、政豊深尾重昌
一唯、郷
小出吉英長女、栄松院
一輝、女子、一俊
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山内 一唯(やまうち かつただ)は、江戸時代前期の武将旗本武蔵国指扇山内家(新橋山内家)の祖。

略歴[編集]

慶長5年(1600年)、遠江国掛川城主であった山内一豊の弟の山内康豊の四男として、掛川にて誕生した。

大坂の陣で戦功を挙げて、元和9年(1623年)に山内本家とは別に武蔵国指扇領18ヶ村3千石を与えられて幕府旗本となり、領内の中釘村に陣屋(中釘陣屋、指扇陣屋)[2]を築いた。書院番を勤め、後に酒井忠行の組に加わった。

領内にあった果成寺を実母であった妙玖院の菩提寺とし、妙玖寺と改称した。同寺には一唯以下、一輝、栄松院、法養院(栄松院の母)の墓が残る。

寛文3年(1663年)、死去した。

逸話[編集]

60歳の時、家臣高村権之丞の妻の妙陽(19歳、2児の母)に惚れ、妙陽に親子夫婦の縁を切らせ側室とした。権之丞父子は家老となり、荒川の堤防の構築を指揮したり、新田の開発をした。一唯の没後も復縁せず、元妻とは主従の関係を崩さなかった。

系譜[編集]

一唯の死後、旗本山内家は嫡男の一輝が相続したが、翌年に一輝が26歳で病没したため弟の一俊が相続した。しかし一俊も27歳で死去したため、一俊の長男豊房がわずか4歳で相続した。一方その頃、山内本家である土佐藩4代藩主の山内豊昌に嗣子が無かったため、元禄元年(1688年)2月に豊房が本家の養子となることとなり、元禄13年(1700年)に豊昌が死去したため、土佐藩主となった。豊房が養子となった際に指扇領は幕府に返上したため、豊隆らの実弟がいたが[3]旗本家である指扇領山内家(新橋山内家)は断絶している。豊房も35歳で嗣子なくして没したため、弟の豊隆が藩主となった。

指扇は所領ではなくなったが、妙玖寺は上記の縁により以降は土佐藩山内家から保護を受けた。

脚注[編集]

  1. ^ 元和元年(1615年)叙任。
  2. ^ 菩提寺の妙玖寺に隣接。
  3. ^ ただし次弟の豊隆は鳥居氏の養子となっていた。