尼子高久

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京極高久/尼子 高久
時代 南北朝時代
生誕 貞治2年/正平18年(1363年
死没 明徳2年/元中8年10月11日1391年11月7日
別名 次郎[1]、五郎左衛門[1]、五郎左衛門尉[2]
官位 刑部少輔備前[1][2]
幕府 室町幕府 近江守護代
主君 京極高詮
氏族 京極氏尼子氏
父母 父:佐々木高秀[1][2]
兄弟 京極高詮[1][2]吾全秀満[3][1][2]
高久宍道秀益[1][2]宇賀野高雅[2]多田満秀[4]
詮久[1]持久[1][2]
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京極高久/尼子 高久(あまご たかひさ)は、南北朝時代武将。後の出雲国戦国大名である尼子氏の祖。京極高秀の三男。

生涯[編集]

一部の資料では、尼子氏の祖は塩冶高貞の遺児である塩冶玄貞(のりさだ)であるとされる[5]。高久に尼子郷(現在の滋賀県犬上郡甲良町)を与えるよう高秀に命じたのは、高久の祖父であり、バサラ大名として著名な佐々木道誉(京極高氏)ともされる。

貞治2年/正平18年(1363年)、京極高秀を父として生まれる。14世紀後期に近江国守護代に任ぜられた。尼子郷に館を構えて居したことから尼子と称す。明徳2年/元中8年10月11日1391年11月7日)死去。享年29。

高久の子のうち、嫡男の詮久(のりひさ)は近江の所領を受け継いだ(近江尼子氏)。また、次男の持久山名氏と係争状態にあった出雲に下向し、守護代となった(出雲尼子氏)。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 今井尭ほか編 1984, p. 326.
  2. ^ a b c d e f g h 田村哲夫編修 1980, p. 230.
  3. ^ 寛政重修諸家譜
  4. ^ 田村哲夫編修 1980, p. 231.
  5. ^ 一説には、玄貞が京極氏の養子となり高久となったという説。または『羽衣石南條系図』にある尼子右衛門尉経時が高久であるとする説。

出典[編集]

  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599 
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 寛政重修諸家譜』(四百十九)

関連項目[編集]