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小西正太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小西 正太郎
生誕 1876年7月12日
秋田県仙北郡六郷村
(現、秋田県仙北郡美郷町
死没 (1956-04-26) 1956年4月26日(79歳没)
秋田県仙北郡六郷町(現、美郷町)
墓地 本覚寺(秋田県美郷町)
国籍 日本の旗 日本
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小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日[1] - 1956年4月26日)は、日本洋画家。秋田県出身。

略歴

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秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の素封家の家に生まれる[2]。小西忠兵衛(5代。幼名は正治。号は交和)の長男。弟は六郷町郵便局長の宗吉[3]。正太郎が生まれた当時の小西家の主な資産は、小作米500俵、町内に3,300平方メートルの敷地、山林5ヘクタールと記録され、六郷町下では第二の資産家であった[4]。六郷小学校から秋田県立秋田中学校を経て1895年(明治28年)東京美術学校予科に進んだ[2]。翌年日本画の本科に進んだが、このころ洋行を終えて帰国した黒田清輝が西洋画科の初代教授として美術学校に赴任するとたちまちその影響を受け、西洋画に転じて黒田に師事した[2]1902年(明治35年)、26歳で東京美術学校卒業。黒田はもとより藤島武二岡田三郎助などと親しく交わるようになっていた[4]。また、六郷出身の作家小杉天外によるヒット作『魔風恋風』のヒロイン荻野初野に思いを寄せる青年美術家のモデルは正太郎だといわれている[4]

卒業後は神奈川県茅ヶ崎アトリエを建てて創作活動をおこなったが、健康上の理由で帰郷、1904年(明治37年)4月から創立間もない秋田県立横手中学校美術教師となった[2][5]。自宅のある六郷から横手中学までは片道13キロメートルの距離であったが、病弱な彼は人力車で通勤したという[4]。美術学校卒の正太郎は横手中学でおおいに歓迎され、期待もされたが、病気がちであったためわずか8か月の助教諭生活に終わった[4]。こののち正太郎は7年間の長い療養生活に入り、1911年(明治44年)に病気はようやく平癒したが、六郷町内の有志が正太郎を秋田県会議員選にかつぎだして立憲政友会から立候補させた[4]。正太郎はこれに当選したものの、政治家としての業績はほとんどなく、1期を務めただけで議員生活はやめている[4]

小西正太郎「赤い着物の女」(1924年)油彩、キャンバス
秋田市立千秋美術館

やがて正太郎の胸にはしだいに絵画への情熱がよみがえっていった[5]1922年(大正11年)、美術学校時代の友人中沢光弘らが渡欧する話を聴いた正太郎はこれに同行することを決意し、家財の一部を売却してヨーロッパへの渡航資金にあてた[4]フランスでは留学先をパリ・アカデミーとし、ここでスペイン人画家オルティスに師事した[4]。しばらくはカフェに通いづめだったが、やがて国際美術展やサロン・ドートンヌ展をはじめとする各サロンに出品した。1924年、権威あるサロン・ナシオナル展で「臥せる裸婦」(80号)が入選、ベルギー王室美術協会展でも「赤い着物の女」(60号)が入選した。翌1925年(大正14年)、正太郎はパリ・アンデパンダンとサロン・ドートンヌの会員となり、実力画家としての地歩を固めた[4]。また、この年、サロン・ナシオナルの出品目録に日本人として藤田嗣治に次いで正太郎の作品写真が掲載され、話題となっている[5]パリではギャラリー・カーミンヌで個展をひらき、好評を博した[4]。パリ遊学時代の正太郎は、藤田嗣治、大久保作治郎田辺孝次石黒敬七などの日本作家と親交を結んだ[4][5]

1926年(大正15年)に帰国して同年4月、東京の三越百貨店で個展をひらいた[2]。翌月、同様の個展を秋田でもひらいている[4]。東京では世田谷に居を構え、神田に「自由研究所」という後進指導のための絵画学校を開設して、勤労青年に絵の手ほどきをした[4]1927年昭和2年)には白日会会員に推され、同年の帝展[注釈 1]には「水浴後」を出品して入選した[4]。正太郎は、その後も二科会槐樹社光風会主催の各展覧会に出品するなど精力的に活動したが、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)、ひで夫人とともに故郷の秋田県六郷町に帰郷した[4]。戦後は郷里で趣味三昧の生活を送ったといわれる[4]1956年4月26日逝去。六郷町の浄土宗寺院東光山本覚寺がある[4]

女性の美を見つめて描く裸婦画を得意とした[2]横手市秋田県立近代美術館秋田市秋田市立千秋美術館などに作品がある。

家族・親類

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  • 三男・禮三郎(礼三郎)は、正太郎の弟・宗吉のあとを継ぎ、六郷郵便局長をつとめていた[6]
  • 藤井玄瑞 - 1920年(大正9年)12月没の医者。「ゲンジ」さんと呼ばれ、町の人々から親しまれており、六郷本道町の角に住んでいた。六郷における医者が3代続いた家である。
    • 藤井帰一郎(きいちろう) - 玄瑞の娘婿。明治16年12月、長女タケに内小友村宮林新田(現在の大仙市内小友)の小松清兵衛の次男である帰一郎を婿にした[3]。明治20年、六郷上町に分家。教育者。
    • 藤井新八郎 - 玄瑞の長男。小西正太郎とは姻戚(義弟)にあたる[2]。秋田県美郷町出身で、藤井玄瑞の長男。秋田中、一高、東大卒後に各病院長を歴任した。後に地元へ戻り、六郷町で開業し、六郷町長を務めた[7]
      • 藤井達次 - 明治37年生で、玄瑞の孫、新八郎の次男。北大農科卒後、東京医専に進み医師となる。昭和4年に秋田女子師範で生物学を講じた。昭和38年以降は、男鹿保健所長を勤めた[7]また、六郷町の郷土史家の栗林新一郎とは知友である[7]

関連項目

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脚注

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脚注
  1. ^ 帝国美術院展覧会、現日展
出典
  1. ^ 『20世紀物故洋画家事典』(美術年鑑社、1997年)p.120
  2. ^ a b c d e f g 「小西正太郎」『秋田大百科事典』(1981)p.344
  3. ^ a b [鐘はかたり 清水はささやく]
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 小峰「小西正太郎」『秋田の先覚5』(1971)pp.220-227
  5. ^ a b c d 「秋田の洋画先駆者 小西正太郎」
  6. ^ あきた(通巻22号)、1964年(昭和39年)3月1日発行”. 2020年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月7日閲覧。
  7. ^ a b c あきた(通巻47号)”. 2019年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月7日閲覧。

参考文献

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  • 太田和夫「小西正太郎」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4 
  • 小峰秀夫 著「小西正太郎・田口省吾・広幡憲法」、秋田県総務部秘書広報課(編) 編『秋田の先覚 5』秋田県広報協会、1971年5月。 

外部リンク

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