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小沢武雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小澤 武雄
生誕 1844年12月19日
豊前国小倉
死没 (1926-01-29) 1926年1月29日(81歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 18?? - 1890
最終階級 陸軍中将
指揮 陸軍参謀本部長
参謀本部次長
戦闘 長州征伐
戊辰戦争
西南戦争
除隊後 貴族院議員
墓所 青山霊園1イ11-8
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小澤 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日天保15年11月10日) - 1926年1月29日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将貴族院議員男爵。幼名・直之丞。

経歴

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小倉藩士・小澤義房の長男として生まれる。1866年、第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。1868年戊辰戦争に出征し越後会津へ転戦した。明治政府の若松民生局に出仕し、軍務官筆生、兵部少録、兵部権大録、兵部大録、兵部権少丞、兵部省7等出仕を経て、1871年、陸軍少佐に任官。第二副官陸軍省官房長アメリカ出張、陸軍省第1局長代理などを歴任。1877年2月から10月まで西南戦争に征討総督本営参謀として出征。

1878年11月、陸軍少将に進級。陸軍省第3局長、同第1局長、同総務局長、兼陸軍士官学校長、陸軍少輔などを経て、1885年5月、陸軍中将となった。陸士校長、参謀本部次長、陸軍参謀本部長、欧州出張などを経て、1890年10月、予備役に編入された。

1887年5月24日、男爵を叙爵し華族となり[1]1890年9月29日[2]から1926年1月まで貴族院勅選議員に在任した。1891年12月17日、舌禍事件により陸軍中将を諭旨免官となった。谷干城提出の建議案の賛成演説で、軍機遺漏があったとの理由であった[3][4]。貴族院内では谷と同一行動をとった[5]

1893年近衛篤麿・曾我祐準とともに北海道協会の設立発起人となった[6]

1898年設立の徴兵保険株式会社(東京市日本橋区)の社長に就任[7]。ほか、日本赤十字社副社長、上野鉄道(上信電鉄)初代社長を勤めた。

栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

脚注

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  1. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
  2. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  3. ^ 東京朝日新聞1891年12月18日1面。
  4. ^ 山形自由新聞、東京日日新聞 明治24年12月18日『新聞集成明治編年史第8巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ 東京朝日新聞1894年3月15日1面「谷子爵一派の会合」。
  6. ^ 東京朝日新聞1893年3月28日1面「北海道協会発起人会」。
  7. ^ 實業興信所 1908, p. 30.
  8. ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109
  9. ^ 『官報』第621号「叙任及辞令」1885年7月27日。
  10. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  11. ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
  12. ^ 陸軍少将黒川通軌外六名勲二等ニ進叙」 アジア歴史資料センター Ref.A15110025500 
  13. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  14. ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
  15. ^ 『官報』第7333号「叙任及辞令」1907年12月6日。

参考文献

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公職
先代
大山巌(→欠員)
日本の旗 陸軍少輔
1881年 - 1885年
次代
(欠員→廃止)
軍職
先代
熾仁親王
参謀本部長
陸軍参謀本部長
1888年 - 1889年
次代
熾仁親王
参謀本部長
先代
曽我祐準
参謀本部次長(陸軍)
1886年 - 1888年
次代
(廃止→)川上操六
先代
三浦梧楼
谷干城
陸軍士官学校長
1885年 - 1886年
1881年 - 1882年
次代
曽我祐準
三浦梧楼
ビジネス
先代
(新設)
高砂生命保険社長
1914年
次代
原邦造
先代
(新設)
上野鉄道社長
1895年 - 1897年
次代
臼井哲夫
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
小澤(武雄)家初代
1887年 - 1926年
次代
小澤定雄