宮光園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
宮光園主家(2018年10月10日撮影)

宮光園(みやこうえん)とは、山梨県甲州市勝沼町下岩崎にあるブドウ園。近代化産業遺産経済産業省認定)。勝沼・日本のワイン[注 1]産業を確立した宮崎光太郎(1863年 - 1947年)の自宅であり、葡萄を栽培するブドウ園、ワインを醸造するワイナリーの諸施設を含む。「太郎のブドウ」なので宮光園と呼ばれる。

現在は修復工事中だが、2011年3月26日からは主屋が公開されている。主屋2階の展示室では、勝沼のワイン産業や宮光園の歴史、宮崎光太郎の事跡などを知ることができる。ボランティアガイドがいるときは、依頼すれば説明をしてくれる。

所在する甲州市勝沼町は甲府盆地東部に位置する。一帯は農村養蚕地帯であったが、江戸時代後期には一部の地域で商品作物としての甲州葡萄の栽培が行われていた。近代・昭和戦後期には中央線が開通し、葡萄栽培、ワイン醸造業が本格化し、観光においても活用されている。

建物[編集]

南門(正門)を入ると、主屋がある。2012年7月時点では、公開されているのは正門から主屋までと庭だけである。現存する建物・遺構として、

  • 主屋
  • 南門(正門)
  • 写真館跡(正門の横に枠だけが残る)
  • 白蔵(正門から主屋を見て右側の蔵)
  • 道具蔵・文書蔵(主屋の奥)
  • ブランデー蒸留用の煙突
  • ワイン貯蔵庫
  • 第一醸造所跡(現存せず痕跡だけ)

がある。 道を隔てて、メルシャンのワインギャラリー、ワイン資料館、見本ブドウ園があるが、これらも宮光園の一部だった(ワイン資料館は、明治37年に宮崎第二醸造所として建設された)。

主屋[編集]

  • 宮崎光太郎の自宅。最初は純然たる日本建築で、2階は養蚕用の部屋だったが、昭和3年に2階を洋風に改築している[1]。そのときに屋根も高くしている。2階の展示室に行くと、柱を継ぎ足している様子が見える。
  • 2階は、洋風化後も、柱も壁もない大広間だった。現在は展示室を作るためと補強のために仕切りを入れている。ちなみに、公開直前の2011年3月11日の地震では異常はなかった。
  • 1階には、奥座敷、土間、皇族用便所、来賓用風呂場、居室などがある。居室の地下には石室がある。なんのための石室か、現在では謎である。また、2008年には1922年大正11年)から1927年(昭和2年)のワイン造りを記録した映像資料『宮光園映像資料』が発見された。原本は甲州市教育委員会所蔵。デジタル修復して13分に編集したものを1階で見ることができる[注 2]。これは当時の醸造主がワイン産業振興のため東京の映画会社に依頼した35mmフィルムで、宣伝用であった。内容はぶどうの収穫、馬や天秤棒を利用した運搬作業、計量、破砕、発酵から圧搾、熟成、びん詰に至るワインの醸造工程のほか、視察団体の歓迎式、勝沼の風景、昇仙峡、学生の運動会、東京都新宿区下落合の瓶詰め工場など、今では失われた風景の貴重な記録となっている。

主屋前[編集]

主屋の前には、大きな角の丸い三角形の石がある。見ようによっては富士山のようにも見える。白蔵の建設中に土中から出た石で、形がいいので置いてある。その隣には、石の大黒像がある(米俵ではなくワイン樽に乗っている)。大黒葡萄酒というブランドでワインを売っていたので、イメージキャラクタは大黒様だった。

白蔵[編集]

白ワインを作っていたから白蔵という。地下はワイン貯蔵庫になっている。ちなみに「赤蔵」という建物はない(赤ワインは造っていた)。

レンガ煙突[編集]

ブランデー蒸留するための煙突。明治時代、レンガは最先端技術。もともとは鉄道トンネル(大日影トンネル深沢トンネル)の建設で大量のレンガが必要となったため、牛奥にレンガ工場を建設した。そのレンガを利用して建設したものがいくつか現存している(龍憲セラー旧田中銀行の蔵など)が、この煙突もその1つ。

ワイン貯蔵庫[編集]

主屋の奥に、屋根だけ見える地下貯蔵庫。いますぐでも使えそうなほど状態はいいが、2012年7月時点では未公開。

修復[編集]

主屋の修復は、建物全体をジャッキで持ち上げて基礎から修復した(地下の石室もこのとき発見された)。 (腐食・破損したもの以外)使える材料は全部使うという方針で修復した。木材は色が黒っぽいものは当時のもの、白っぽいものは新しいもの。窓ガラスは、景色がゆがんで見えるものが当時のもの、ゆがまないのが新しいもの。瓦は、全部で2万枚発見されたが、1枚ずつたたいて使えるかどうか確認した。 結霜(けっそう)ガラス[注 3]は、現在は日本では作っていないので、日本中のガラス会社を探してやっと見つけたという[2]

歴史[編集]

大日本山梨葡萄酒会社[編集]

現在の勝沼のぶどう栽培

近代には明治政府殖産興業政策を受けて、山梨県政においても製糸業など殖産興業政策が実施される。明治初期に県政を主導した山梨県令・藤村紫朗の指導によって、1877年明治10年)に大日本山梨葡萄酒会社が設立された。2人の若者(土屋龍憲(助次郎)、高野正誠)をフランスへ留学させた[注 4]

宮光園では2人が帰国した1879年(明治12年)にワイン造りを開始した。現在、龍憲セラーの横にある土地がその場所で、元は日本酒酒蔵だったという。

しかし、さまざまな問題によりワイン造りは軌道に乗らず、1886年(明治19年)に大日本山梨葡萄酒会社は解散した[注 5]

甲斐産商店と中央線[編集]

土屋龍憲と宮崎光太郎は、解散した会社の醸造器具を譲り受け、醸造を継続した。最初は土屋龍憲が醸造、宮崎光太郎が販売を担当する。1888年(明治21年)、東京日本橋東京都中央区)に甲斐産商店を開く。

  • 1890年(明治23年)、宮崎は土屋龍憲と別れて、独自に醸造も行うようになる[注 6]
  • 1892年(明治25年)、宮崎は自宅の敷地に第一醸造所を建設。1903年(明治36年)に中央線が甲府甲府市)まで開通して、東京まで大量に出荷できるようになったため、1904年(明治37年)、第二醸造所を建設する。鉄道開通までは、甲州街道荷駄により笹子峠を越えて陸送するか、鉄道開通まで山梨県物流の中心であった富士川舟運により輸送するかという、江戸時代以来の方法で東京へ出荷していた。量も限られるし日数もかかる。鉄道なら半日で大量に運べる。鉄道は、勝沼のワインだけでなく生ブドウにも革命的な変化をもたらした。

甲斐産商店から大黒葡萄酒へ[編集]

客がブドウ園を訪れ、ブドウを食べ、ワインを飲み、工場見学もする、という観光ブドウ園というものを、宮崎光太郎がはじめた。宮光園は日本初の観光ブドウ園といわれる。さらに、温泉に泊まって翌日は昇仙峡(甲府市)を見て帰るというパックツアーも考えたといわれる。このように、ワイン造りを観光と組み合わせたワイン産業として発展させたのが宮崎光太郎と評される。

1919年大正8年)までには、東京・下落合(東京都新宿区下落合)に瓶詰め工場を設置[注 7]1923年(大正12年)、関東大震災で日本橋の営業所が焼けたため、営業所も下落合に移転する。1926年(大正15年)までには自宅も下落合に移す[注 8][3]

1931年昭和9年)、社名を甲斐産商店から大黒葡萄酒へ変更する。それまでは、大黒葡萄酒はブランド名だった。

戦争、酒石酸、日本連抽株式会社[編集]

第二次世界大戦では、ワインに含まれる酒石酸ソナー(音波探信儀)の材料になる[4]ことがわかり、軍事目的で葡萄酒に石灰を加え煮沸し、結晶化させ酒石酸を採るためにワインを生産することが奨励される。勝沼でも1944年(昭和19年)に日本連抽株式会社(酒石酸を連続抽出する会社)が設立され、現在のメルシャン工場に所在した。同じ年に、宮崎第一醸造所が解体されたと考えられている[注 9]

なお、実際に酒石酸の一斉採取が行われたのは同年秋の一度だけで、酒酸石を採取した廃液は葡萄酒として販売され、国産葡萄酒に対する評価・信頼を失墜させたことが指摘される[5]

オーシャンからメルシャンへ[編集]

戦後、日本連抽株式会社は日清醸造[注 10][6]となり、1949年(昭和24年)に「メルシャン」ブランドのワインを発売する。1961年(昭和36年)、日清醸造は三楽と合併。同じ年、大黒葡萄酒はオーシャン株式会社に社名変更。1962年(昭和37年)、三楽とオーシャンが合併して三楽オーシャン株式会社となる。この会社が、現在のメルシャン株式会社となる。つまり、日清醸造、三楽、オーシャン(大黒葡萄酒)の3社が合併してメルシャンとなった。

戦争とワイン[編集]

戦時において国産ワインは売れた。日清日露戦争では、軍が薬用としてワインを購入したし[注 11][7]第一次世界大戦では、ヨーロッパが戦場だったためにヨーロッパ産ワインの輸入ができず、しかも日本は空前の好景気[注 12]。国産ワインは売れた。

日中戦争から第二次世界大戦は、日本のワイン造りに大きな影を落とした。1939年(昭和14年)、酒税法の改定。それまで無税だったワインにも翌年から課税されることになる。徴税の効率化のため、醸造所の統合が強制される[注 13][8]。ブドウの出荷もワインの醸造も完全に統制され、効率第一、品質無視。「ワイン冬の時代」に突入する。

さらに、ワインに含まれる酒石酸がソナー(音波探信儀)の材料になる[注 14]ことがわかり、海軍から「酒石酸をよこせ」と命令が来た。陸軍も別の理由により酒石酸を要求[注 15][9]。(飲むためではなく)酒石酸を採るためにワインを造る時代になってしまった。建前としては、ワインに含まれる酒石酸の半分を採れば足りることになっていたが[10]、実際はそうではなかった[11][12]。ブドウの生食は禁止(食べたら酒石酸が採れないので全部ワインにする)。ワインに溶けている酒石酸を採るだけでなく、樽にこびりついた酒石は樽をばらしてかき取る、ワインの搾りかすからも抽出する、葉っぱや茎からも抽出する、ヤマブドウも採ってくる、という徹底ぶり[13]。たいへんな重労働であるだけでなく、むりやり酒石酸を採った後のワインは、まずいし保存もきかない劣悪な「廃液」。ワインの評判は地に落ちた[注 16][14][15][16]

このような時代を経て、ブドウ畑は保護された[17]。「ブドウは兵器だ[注 17]」のスローガンの下、酒石酸の生産が行われた。ワイン醸造に必要な砂糖も特別に配給された[注 18][18]

しかし、戦況の悪化により本土空襲は激化。ロッシェル塩生産の拠点、甲府のサドヤ酒造までも空襲される事態となる[19]

人物[編集]

宮崎光太郎[編集]

みやざき・こうたろう。「みつたろう」という説もある。

1863年(文久3年) - 1947年(昭和22年)。

日本初の観光ブドウ園「宮光園」を開設。ワイン醸造と観光を組み合わせて日本のワイン産業を育てた。

明治時代、まだまだ日本人になじみの薄かったワインを普及させるため、さまざまなアイデアを考えた。

  • 客がブドウ園に来て、ブドウを食べ、ワインを飲み、工場見学をするという観光ブドウ園を開設。さらに温泉に一泊して翌日は昇仙峡を見て帰るというパックツアーも考えた。
  • ワインの分析を依頼し、混ぜ物のない純良なワインであるというお墨付きを得て、病院に薬用として売り込む 。
  • 一合ビン葡萄酒。いつでもどこでも王冠を開けて飲めるし、ビールと同じアルコールがあると宣伝。
  • ブドウジュースの製造方法を確立した。
  • 生ブドウを数か月保存するための天然保存庫、通称「ぶどう冷蔵庫」を考えた。現在もいくつか残っている。
  • 宮内省に何度も献上して、宮内省御用達の商標を許される。ぶどう冷蔵庫で保存した生ブドウを、季節外れに献上したこともある。

松本三良[編集]

まつもと・さんろう。「さぶろう」という説もある。

1880(明治13年) - 1966(昭和41年)。

宮崎光太郎には男子がなかったため、甥である松本三良が宮崎光太郎の娘・なかと結婚。宮崎光太郎は、松本三良の子、良朝を養子とした。 宮崎光太郎が東京へ拠点を移してからは、松本三良が宮光園を守った。

展示室とおもな展示品[編集]

主屋2階は3つの展示室となっている。展示品のほとんどは、宮光園の修復時に発見されたもの。

第1展示室[編集]

勝沼のワイン造りのはじまりと、宮光園が発展していく時代を知ることができる。

竹かご[編集]

ブドウを入れるかごは、竹かごだった。ブドウ棚も竹だったので、ブドウ畑の周辺にはかならず竹林があったといわれる。

葡萄三説[編集]

高野正誠が、研究成果をまとめた書籍。

明治のワインボトル[編集]

土屋龍憲と高野正誠が造ったワイン(復元)。実物はメルシャンワイン資料館にある。松やにで封印していた。

ワイン造りの写真[編集]

宮崎光太郎は、写真が好きで、自前で写真館も持っていた。宮光園の修復工事では600枚の写真乾板が発見された。当時のワイン造りの様子がわかる貴重な資料となっている。

100円の借用証[編集]

明治19年の借用証。宮崎光太郎の父、宮崎市左衛門が若尾逸平から100円を借りたというもの。明治19年の100円が現在のいくらに相当するか?[注 19]

3種類のブランド(ラベルとボトル)[編集]

甲斐産葡萄酒はブドウ100%の本格ワイン。後に「大黒葡萄酒」ブランドとなる。

エビ葡萄酒[注 20]は、甘味成分を添加した甘味ワイン。当時は、本格ワインより甘味ワインのほうが売れたという[注 21]

滋養帝国葡萄酒は、薬草成分を添加した薬用ワイン。

1合ビンとブドウジュース[編集]

1合のワインボトル。王冠なので、いつでもどこでも栓抜きで開けることができる。「これ1本でビールと同じアルコールがある」というのが宣伝文句(当時はビールも高級品)。

M. Miyazakiのラベル[編集]

当時のラベルには、M. Miyazakiの名前が入ったものがある。このため「みやざき・みつたろう」ではないかという説がある。

第2展示室[編集]

宮光園の敷地と建物を紹介している。

船会社のハガキ[編集]

富士川の船会社から宮崎光太郎にあてた、明治34年のハガキ。明治36年に鉄道が開通する直前なので、「今後も船便をご利用ください」というハガキ。

父親あての手紙[編集]

宮崎光太郎が父親に書いた手紙。この中で、ワインを貨車で輸送するとき、他の荷物といっしょだと割れるおそれがあるので、貨車1両を借り切って専用棚を作ってはどうかというアイデアを書いている(実現したかどうかは不明)。

主屋の新旧写真[編集]

主屋は、もともとは純然たる日本建築で、2階は養蚕のための空間だったが、1928年(昭和3年)に2階を洋風化した。

葡萄酒原料買入帳[編集]

ワインの原料となるブドウを買い入れた帳面。 宮崎光太郎は、積極的にブドウを買い上げた。そのため、ブドウ農家は感謝して「自分たちはワインを飲もう」と積極的にワインを飲むようになった。晩酌もワイン、お神酒もワイン、なんでもワイン。

葡萄焼酎蒸留帳[編集]

ブランデーの蒸留帳。最初は葡萄焼酎と呼んでいた。明治44年にはブランデイという表記になっている。

第3展示室[編集]

宮崎光太郎と松本三良の人物と業績を紹介している。

記念写真帖[編集]

宮崎光太郎は、宮光園と昇仙峡観光を組み合わせたパックツアーを考えたという。その記念写真帖。右側が醸造所とブドウ棚、左側が昇仙峡の写真。

戦地にブドウを送った写真[編集]

写真には、「承認第三二五号 陸軍恤兵品」と書いた立札が見える。生ブドウは、承認がなければ出荷できなかった(生ブドウを食べると酒石酸が採れない)。

山梨県知事による弔辞[編集]

戦後の山梨県知事・天野久による松本三良への弔辞。松本三良は、もともとは教育者として活躍したことがわかる。

その他[編集]

皇族写真[編集]

2階廊下の上部には、宮光園を訪れた皇族の写真が掲示されている。とくに戦前は、多くの皇族や内閣総理大臣が訪れている。

謎の石室[編集]

1階居室の地下には石室がある。居室の床がガラス張りになっていて石室を見ることができる。隣室の地下にも石室があり、通路でつながっている。しかし外部にはつながっていない。まともな出入り口もない。なにに使用したのか、謎の石室である[注 22]

勝沼コンシェルジュ[編集]

勝沼コンシェルジュとは、宮光園で活動するボランティアガイドの会の名称。「宮光園だけでなく、勝沼全体の情報を発信していきたい」という思いが、この名称に込められている。全員が無償ボランティアであり、仕事や家事の合間の活動であるから、宮光園に常駐できる体制にはなっていない(2012年7月現在)。

見学[編集]

  • 火曜日は休館日。
  • 入館料は大人200円、子供100円。20名以上の団体は半額。
  • 詳細は要確認。
  • ボランティアガイドがいる場合は、依頼すれば説明をしてくれる。

交通[編集]

  • 電車:中央線 勝沼ぶどう郷駅 下車。タクシーが便利。徒歩40から50分だが、甲府盆地や南アルプスを見ながらの散歩もおすすめ。
  • 高速バス:中央高速バスで勝沼バス停 下車。徒歩15分程度。新宿 - 甲府線は2系統あり、勝沼に停まらない系統があるので注意。
  • 自動車:中央高速勝沼ICから5分程度。

甲州市勝沼町下岩崎1741番地。電話:0553-44-0444
http://www.city.koshu.yamanashi.jp/shisei/shisetsu/detail/%E5%AE%AE%E5%85%89%E5%9C%92

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ ワイン(wine)は日本では「葡萄酒」と呼ばれた時代が長かったが、本項ではワインに統一する。ただし「葡萄」という用語に意味がある場合は除く。
  2. ^ この映像は、甲州市の他の場所でも見ることができるし、ネットでも公開されている(外部リンク:葡萄とワインの里の原風景)。
  3. ^ すりガラスにニカワを塗る。ニカワが冷えて固まるときに縮むので、すりガラスをひっかくように縮む。そのため、すりガラスに不規則な、霜が降ったような模様ができる。
  4. ^ フランスへ行くだけで45日かかったという。
  5. ^ 失敗の原因は醸造技術の未熟、フランスとの環境の差、日本酒酵母、販売ルートの確立失敗、松方デフレによる不況の影響などが指摘される。
  6. ^ このとき土屋龍憲が設立したワイナリが、現在の「まるき葡萄酒」の基となる。
  7. ^ 目白駅まで貨車で樽を出荷し、下落合で瓶につめかえた。この瓶詰め工場は現在は痕跡も残っていない。
  8. ^ 宮崎光太郎が東京へ移動した後、宮崎の甥の松本三良が宮光園を守った。
  9. ^ 日本連抽株式会社の設立に、宮光園も関与しているといわれる。
  10. ^ 日本連抽株式会社は日清製油が中心になって設立した。
  11. ^ 明治時代は、現代ほど医薬品が豊富ではなかったので、滋養に優れたワインは薬用に利用された。ちなみに、現在の日本薬局方にもワインは医薬品として記載されている。ただし、飲用のワインは医薬品ではない。
  12. ^ 戦場だったヨーロッパが疲弊し、戦場でなかった日本の製品が輸出された。
  13. ^ 山梨県内で3000以上の醸造所があったが、昭和19年には149になる。
  14. ^ 正確には、酒石酸から造るロッシェル塩が、圧電効果があってソナーの材料となる。
  15. ^ 海水から飲料水を採るために使える。
  16. ^ 軍に納入するワインは酒石酸を採らない優良なワインだった。軍では、ワインは滋養強壮の薬であり、航空機搭乗員用に航空糧食として支給したという。
  17. ^ 島国である日本は、船で物資を運ばなければ戦争どころか食べることもできない。敵潜水艦から輸送船を守ることは、国民の生存に直結する大問題。これが「ほんとうの戦争」であり、敵潜水艦を発見するソナーは決定的に重要な兵器だった。
  18. ^ 原料ブドウの糖度が不十分だと、ワインとして必要なアルコール度数にならない。糖度を補うために砂糖を添加してアルコール度数を高める。
  19. ^ 物価水準で比較すると、当時の1円が現在の数千円から1万円程度。だが、貨幣価値の比較はそれほど単純ではない。
  20. ^ エビの味がするわけではない。当時、カニ印のワインがあったため、対抗したという説と、ブドウの別名エビカズラからきたという説とがある。
  21. ^ 神谷伝兵衛の蜂印ブドー酒、鳥井信治郎の赤玉ポートワインというライバルがあった。
  22. ^ 防空壕であるとは考えられない。外部への出入口がないし、上の建物が崩れたらつぶされてしまう。

出典[編集]

  1. ^ 参考文献7
  2. ^ 参考文献7
  3. ^ 参考文献6
  4. ^ 参考文献2、p.6
  5. ^ 室伏徹「戦前戦後の葡萄酒生産と酒石酸」『甲斐 第137号』(山梨郷土研究会、2015年11月)、p.28
  6. ^ 参考文献3 p.252
  7. ^ 参考文献3 p.202
  8. ^ 参考文献1 p.768
  9. ^ 参考文献2 p.6
  10. ^ 参考文献2 p.8
  11. ^ 参考文献1 p.770
  12. ^ 参考文献3 p.248
  13. ^ 参考文献2 p.6-9
  14. ^ 参考文献4 p.140
  15. ^ 参考文献5 p.217
  16. ^ 参考文献1 p.770
  17. ^ 参考文献4 p.136
  18. ^ 参考文献1 p.769
  19. ^ 参考文献4 p.139

参考文献[編集]

  1. 勝沼町誌 1962年
  2. 日本園芸雑誌、昭和19年8・9月合併号 p.6-9、社団法人日本園芸中央会
  3. 山梨のワイン発達史、上野晴朗
  4. ぶどう酒物語、山梨日日新聞社、昭和53年
  5. 写真で見る海軍糧食史、藤田昌雄、2007年
  6. 落合町市街図、大正15年、新宿歴史博物館所蔵
  7. 宮光園観光ボランティアガイド養成講座、甲州市、2011年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

(ナレーションで「目白通りと思われます」とあるが、実際は目白駅から山手線に沿って学習院の横を南下する坂道が映っている)

座標: 北緯35度39分34.43秒 東経138度43分23.77秒 / 北緯35.6595639度 東経138.7232694度 / 35.6595639; 138.7232694