大威徳寺跡

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大威徳寺跡(だいいとくじあと)は、飛騨国益田郡竹原郷御厩野(現在の岐阜県下呂市御厩野)と、美濃国恵那郡加子母(現在の岐阜県中津川市加子母)との国境に存在した寺院の跡。岐阜県史跡指定第67号。

歴史[編集]

鳳慈尾山 大威徳寺は、源頼朝征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いた時、頼朝の寺院建立の命を受けた文覚上人が、美濃国飛騨国の国境、舞台峠に近い、この地に来て、霊感を得て建立したと伝わる。拝殿山(標高1402m)から南西に延びる丘陵の先端(標高742m)に位置し、周囲には伝西坊、伝多聞坊という地名が散在する。

建てられた当時の規模は壮大なもので、約10haの土地に仁王堂礎石、本堂礎石、鐘楼堂跡、三重塔跡等が残り、丈5間4方(14.4m)の本堂の他、7堂12坊を有する天台宗の大寺院であり、14世紀から15世紀の室町時代において最盛期を迎えた。しかし戦国時代永禄12年(1569年)美濃国苗木城主の遠山直廉と、竹原郷の代官から戦国大名となった三木氏との合戦時の兵火で多くの堂塔が焼失した(大威徳寺の戦い)。さらに天正13年(1585年)に発生した天正地震により壮大な大寺院はほぼ壊滅し、その後も細々と存続したようだが17世紀後半に廃寺となった。

12坊の1つであった「多聞坊」(現在の中津川市加子母の小郷に存在した)僧の慶俊は、郡上市長瀧寺へ逃れ、そこで大威徳寺に関する記録を残し、現在はその写しが高山市宗猷寺に現存している。創建当時の大威徳寺は壮大で格式も高く、諸国の武士が駕籠や馬で参詣する折も堂前へ乗り入れが許されなかったため、麓の野に厩(馬屋)を設けて留めたと言われ御厩野の地名もこれに由来するものと伝わっている。

現在、中津川市加子母の小郷にある大杉地蔵尊は行基の作で、元は大威徳寺の塔頭の一つに奉祀されていたと伝えられている。

現状[編集]

  • 現在は雑草と木立に覆われ、僅かに残る本堂の礎石や苔むした五輪塔源頼家のお手植えと伝えられる「鎌倉銀杏」「秩父杉」「長命の泉」、畠山重忠寄進と伝えられる秩父杉の八畳間ほどの切り株跡などが残っている。
  • 平成15年から平成20年にかけて発掘調査が行われ、本堂、軒廊、拝殿、鎮守、仁王門と推定される跡が確認された。

アクセス[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]


外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 『鳳慈尾山大威徳寺跡 平成15年~18年度 範囲確認調査報告書』、2007年、下呂市教育委員会