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地附山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地附山
城山公園から望む
標高 733 m
所在地 日本の旗 日本
長野県長野市
位置 北緯36度40分37.8秒 東経138度11分10.3秒 / 北緯36.677167度 東経138.186194度 / 36.677167; 138.186194座標: 北緯36度40分37.8秒 東経138度11分10.3秒 / 北緯36.677167度 東経138.186194度 / 36.677167; 138.186194
地附山の位置(日本内)
地附山
地附山 (日本)
地附山の位置(長野県内)
地附山
地附山 (長野県)
プロジェクト 山
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地附山(じづきやま)は長野県長野市の北西側にある標高は733 m。裾花凝灰岩[1]で形成される山で、風化により凝灰岩が変質し粘土質鉱物のモンモリロナイトと呼ばれるものになり、粘土質鉱物が後述の災害の際のすべり層となった。

歴史

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山頂付近の標高710m地点には地附山古墳があり、また地から北東に伸びる尾根にかけて上池ノ平古墳群があった[2]。これらの古墳は1986年(昭和61年)の筑波大学の測量調査で前方後円墳とみられている(地附山前方後円墳)[3]。正式な発掘調査は行われていないため、正確な墳丘形態や築造年代はわかっていないが、5世紀中頃から後半の築造と推定されている[3]。上池ノ平古墳群には合掌形石室をもつ古墳もあったが、後述の災害の復旧工事の際に上池ノ平古墳群は切り崩された。北東に伸びる尾根には中世の山城跡の枡形城跡(桝形城跡)もある[2][4]

江戸時代には松代藩の上松村に属し、当初は入会地として薪の採取に利用されてきたものの、後に割山[5]として利用されることとなった。

観光開発

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1960年昭和35年)6月、観光都市を目指した長野市は、観光開発推進委員会を設置して五か年計画による観光開発案を策定した[6]。これは、善光寺を観光の中心にし、その周辺の大峰山・地附山・飯綱高原一帯を観光地に開発しようとするものだった。

地元資金によって設立された長野国際観光株式会社は、地附山を中心に観光開発に取り組み、1961年(昭和36年)春の善光寺御開帳と長野産業文化博覧会に合わせ、雲上殿近くから地附山頂まで善光寺ロープウェイが設置され、3月に運転を開始した[6]。営業ロープウェイは長野県下では初めてとされ、「いいづな」と「とがくし」という41人乗りゴンドラ2台で運行された[6]。雲上台駅の駅舎は鉄筋で食堂もあり、その規模も全国一と言われた。

同年5月3日には山頂駅に隣接して遊園地が開園し、飛行塔や動物園が人気を博した[6]。このほか山頂にはスキー場や観光リフトが設けられ、雲上台駅東側には6ホールをもつゴルフ場の開発、市街地を見下ろす大展望浴場をもつ善光寺ヘルスセンターが開館し、当時はとても賑わっていた。

しかし、1964年(昭和39年)8月有料道路戸隠バードライン(戸隠有料道路)が完成、地附山側に上松料金所が設置された。これにより地附山が通過点となってしまい、地附山観光は低迷していった。1971年(昭和46年)に長野国際観光株式会社は閉鎖し、ロープウェイは市開発公社に移譲されたが、1974年(昭和49年)4月に運休、1975年(昭和50年)10月に廃止となる。

1985年(昭和60年)7月には後述の災害が発生。死者26名を出し、戸隠バードラインは地附山を通る区間が廃道となり迂回ルートとなる浅川ループラインが北側に作られた。

災害後、地すべり対策工事が行われたのち、2004年秋に防災メモリアル地附山公園が開園した。

地附山地すべり災害

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地附山地すべり災害

Mount Jizuki 1976

CCB851Z-C1-5 Mount Jizuki
1976年頃の地附山(上)と1985年地すべり災害直後の地附山(下)。

バードラインが寸断されていることが見て取れる。左の写真の中央に、建設中の松寿荘が見える。

国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
日付 1985年7月26日
場所 長野県長野市上松
原因 泥岩凝灰岩層の粘土化
関係者 吉村午良
死者 26人
負傷者 重症1人、軽傷3人
損害 全壊50棟、半壊5棟、一部損壊9棟、戸隠バードラインの閉鎖
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地滑りの兆候として1981年(昭和56年)ごろより地附山周辺では路面や擁壁の亀裂が確認されていた[7]。当初は排水ボーリング工事などで対策を施していたが[7]、以降も颱風や融雪期になると路面の亀裂は次第に増えていった[7]。しかし、1985年7月以降、豪雨明けに入ると木の根が切れる音や斜面の小崩落などの前兆現象が頻発した。そして道路に生じた亀裂により7月12日に戸隠バードラインは一部区間が閉鎖[8]7月20日午後11時20分頃、湯谷団地の山際にあるグラウンドの裏手にある地附山斜面から泥流が発生しているところを住民が通報した[9]。翌21日未明に警察と消防が避難を住民に呼びかけ、湯谷小学校に約400人が避難した[9]。朝になると避難指示は解除されるものの、湯谷団地の住民らは自警団を結成し地附山内を調査[10]。安全対策への陳情を知事室で行い、また交代で湯谷団地周辺をパトロールすることとなった。7月25日に入り24時間の監視体制を取ることになったが、7月26日に入り、伸縮計が異常な数値を示したことで[11]、同日4時30分避難指示が全戸に出されることとなった[8][11]。全戸避難からわずか30分後の7月26日午後5時頃、大轟音とともに大規模な地すべりが発生。南東側の斜面が幅約500メートル、長さ約700メートル、深さ約60メートルに渡って削り取られた[8]。移動した土砂は500万立方メートルともいわれている。地滑りの様子はテレビ局により撮影され、麓の建物が倒壊する瞬間が茶の間に流された。地すべりにより、斜面にあった戸隠バードラインは寸断(迂回路が事実上の新ルートとされたため、以降、復旧は断念された)。午後5時30分、テレビ信州の送信所が倒壊。午後6時、NHK善光寺FM放送局が停波[12]。午後6時30分、地附山西方斜面に位置していた老人ホーム「松寿荘」の一部建物が押しつぶされ全壊する[8]。午後9時に長野県は対策本部を設置、午後10時には吉村午良長野県知事が自衛隊に救助要請を出し[8]、午後10時58分、災害救助法が適用された[8]。避難指示は湯谷団地、望岳台団地、上松、滝までに広がり、およそ1000名が長野市立湯谷小学校長野市立城山小学校長野県立長野高校に避難することとなった[13]。松寿荘では一時37名もの行方不明者が発生、翌日7月27日より救助活動が開始されるものの、8月1日までに26名の死者を出す事態となった[8]。避難指示は7月28日8月10日8月12日11月30日に一部世帯から解除され、12月20日に残る48世帯への避難指示が解除された。

山のふもとにある長野市立湯谷小学校長野市立城山小学校は、土砂が押し寄せた湯谷団地や全半壊した家の住民の避難所となり、また松寿荘の利用者らは篠ノ井牟礼村にそれぞれ分散し、1986年(昭和61年)10月に新松寿荘に戻ることとなった。

1986年(昭和61年)の警察白書によると、最終的な死者は26人、負傷者は14人、全半壊家屋60棟。動員した警察官はのべ7,000人。車両はのべ1,100台が投入された。

この災害の際に全国から1億4,529万7,912円の義援金が集まったが、長野市地域広域行政事務組合の施設である松寿荘再建を目的に、5,000万円の義援金を長野市地域広域行政事務組合に配分した。さらに長野市地域広域行政事務組合へ1,461万1,709円の義援金が集まり、長野市地域広域行政事務組合が取得した[14]。松寿荘は、元の場所から東に位置する長野市上野2丁目に再建された[15]

気象状況

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気象庁長野地方気象台の調査では1985年の4月から7月までの期間の降雨量は平年よりも少なめであったものの、梅雨入りとなった6月8日より雨の日が多くなり、梅雨期となった6月上旬から7月中旬までの総降雨量が平年の二倍、最も多かった1963年(昭和38年)の521.0mmに次ぐ449.5mmを観測し、建設省はこの降雨量が土砂崩れの一因となったと推測している[16]

地学的知見

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地附山の山頂南側の小川累層と呼ばれる斜面が地すべりを起こしたもので、中新世後紀から洪積世初期の堆積岩と火砕岩類からなり、上から畑山砂質泥岩層(300メートル)、裾花凝灰岩層(700-800メートル)、浅川泥岩層(300メートル)と呼ばれている(括弧内は現場付近での推定される厚み)。地すべりを起こした土砂には、表土層もあるが多くは流紋岩質凝灰角礫岩の粘土化したものである。水分を多量に含みグリス状に粘土化し軟弱となった層が、上に乗る土砂の重みに耐えられなくなり地すべりを起こしている。経験則から見れば、現場付近には明治以降の地すべり痕跡もあり、古い地すべり箇所が再度地すべりを起こした典型的な例である。同じ裾花凝灰岩層地域では、他に茶臼山の地すべりも知られている。

裁判

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1985年(昭和60年)8月10日、湯谷団地地すべり被災者の会が発足[8]。同年9月12日に柳原正之長野市長に補償を申し入れた[8]1986年(昭和61年)3月5日には塚田佐長野市長に補償と防災基金の設立について請願を行い[8]、同年6月30日に宅地買い上げについて合意を取り交わした[8]1987年(昭和62年)3月27日に被災者の会は解散し[8]、4月には長野県対策本部、長野市災害対策本部も閉鎖した[8]。同年5月12日、湯谷団地の住民31人が吉村午良知事を相手に12億円の損害賠償を求め長野地裁に提訴した[8][17]。宅地開発と災害の因果関係、及び地すべり災害の予見可能性が争点となり、1997年平成9年)6月27日に斎藤隆裁判長がバードラインの瑕疵、及び地すべり災害の予見可能性があったとし、県側の責任を認めて、長野県に5億474万円の支払いを命じた[18]

なお、田中康夫長野県知事により一旦建設計画が中止された浅川ダムは、同じ地附山の北東側に位置し、地すべりの懸念が建設反対派の根拠のひとつになっていた。その後、浅川ダムは2010年(平成22年)に建設に着手し、2017年(平成29年)に完成した。

防災メモリアル地附山公園

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防災メモリアル地附山公園
防災メモリアル地附山公園
分類 風致公園
所在地
面積 6.3ha
開園 2004年(平成16年)10月23日
運営者 特定非営利活動法人長野市環境緑化協力会(指定管理者)
設備・遊具 展望台(2箇所)、ローラー滑り台(4基)、アスレチック広場、ちびっこ広場
駐車場 あり(75台)
公式サイト 防災メモリアル地附山公園(長野市公式サイト)
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防災メモリアル地附山公園(ぼうさいメモリアルじづきやまこうえん)は、長野市上松の地すべり跡地のうち6.3ヘクタールを利用して整備された公園風致公園)。2004年(平成16年)秋に開園した。

園内には地附山観測センター(地すべり資料館)や、集水井・集水路などの抑制工があり、地すべり災害とその対策について学ぶことができる。また、長野市街地から志賀高原まで見渡せる展望台のほか、ローラー滑り台やアスレティックなどの遊具がある。

夜間と冬期(11月23日4月1日)は閉鎖される。

脚注

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  1. ^ 長野県の地学 > 裾花凝灰岩(長野市) - 長野県理化学会 地学部会(更新日不明/2017年4月4日閲覧)
  2. ^ a b 『真夏の大崩落 : 長野市地附山地すべり災害の記録』長野市、1993年3月、37-39頁。 
  3. ^ a b 地附山前方後円墳”. 長野市. 2025年4月2日閲覧。
  4. ^ 枡形城跡(桝形城跡)”. 長野市. 2025年4月2日閲覧。
  5. ^ 入会地を一定期間個人に分割して利用する制度。
  6. ^ a b c d 写真は語る 長野市公文書館資料”. 長野市公文書館. pp. 44. 2025年4月2日閲覧。
  7. ^ a b c 『昭和60年地附山地すべり災害(長野県)現地調査報告書 (土木研究所資料 ; 第2296号)』建設省土木研究所砂防部地すべり研究室、1986年3月、13頁。 
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n 長野市地附山地すべり災害誌編さん委員会 編『真夏の大崩落 : 長野市地附山地すべり災害の記録』長野市、1993年3月、16-17頁。 
  9. ^ a b 『真夏の大崩落 : 長野市地附山地すべり災害の記録』長野市地附山地すべり災害誌編さん委員会、1993年3月、49頁。 
  10. ^ 『真夏の大崩落 : 長野市地附山地すべり災害の記録』長野市地附山地すべり災害誌編さん委員会、1993年3月、52-53頁。 
  11. ^ a b 『真夏の大崩落 : 長野市地附山地すべり災害の記録』長野市地附山地すべり災害誌編さん委員会、1993年3月、62-65頁。 
  12. ^ 岡村尊、丸山孝四郎『証憑 : 昭和60年7月26日長野市地附山地すべり』岡村尊、1988年7月、24頁。 
  13. ^ 長野市地附山地すべり災害誌編さん委員会 編『真夏の大崩落 : 長野市地附山地すべり災害の記録』長野市、1993年3月、23頁。 
  14. ^ 『真夏の大崩落 長野市地附山地すべり災害の記録』(編集 長野市地附山地すべり災害誌編さん委員会、発行 長野市・塚田佐)参照
  15. ^ 養護老人ホーム松寿荘 概要、長野広域連合
  16. ^ 『昭和60年地附山地すべり災害(長野県)現地調査報告書 (土木研究所資料 ; 第2296号)』建設省土木研究所砂防部地すべり研究室、1986年3月、5頁。 
  17. ^ 「長野の地滑り被災の住民、11億円賠償求め訴え」『朝日新聞』1987年5月12日、夕刊。
  18. ^ 「住民への賠償命じる 長野・地附山の地滑り災害訴訟で地裁判決」『朝日新聞』1997年6月27日、夕刊。

出典

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参考文献

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  • 『真夏の大崩落:長野市地附山地すべり災害の記録』長野市地附山地すべり災害誌編さん委員会編集、1993年3月。

関連項目

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外部リンク

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