吉見百穴

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吉見百穴
Yoshimi Yoshimi-hyakuana 2.JPG
吉見百穴(2010年11月)
所在地 埼玉県比企郡吉見町
形状 横穴墓
規模 横穴墓200基以上
指定文化財 国指定史跡
地図
吉見百穴の位置(埼玉県内)
吉見百穴
吉見百穴
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吉見百穴(よしみひゃくあな、よしみひゃっけつ)は、埼玉県比企郡吉見町にある古墳時代後期の横穴墓群遺跡1923年3月7日に国の史跡に指定された[1]。2012年現在、有料で一般公開されている。

特徴[編集]

凝灰岩の岩山の斜面に多数の穴が空いていることから、一見異様な印象を受ける遺跡である。穴の数は219個と言われ、このような遺跡としては日本一の規模である。穴の入り口は直径1メートル程度だが、内部はもう少し広くなっていることが多い。古墳時代後期(6世紀-7世紀頃)に造られたものであり、他の多くの古墳が土を盛った小山の中に1つだけ玄室が存在する構造であるのに対し、岩山の表面から数メートルの小穴(古墳の玄室に相当するもの)を多数掘って造られた集合墳墓である。多くの穴に古墳と同様の台座状構造があり、ここに棺桶を安置したとされる。なお、台座は穴によっては複数存在しており、このような穴には家族単位で葬られたものと考えられている。多くの穴の入口の周囲には段差状の構造があり、ここには緑泥片岩という緑色の石で作られた板状の蓋がはめ込まれていた。これは後から穴を容易に開閉可能とするものとされ、複数の台座状構造と合わせて同一の穴に追葬が行われたことを示すものと考えられている。場所の位置によって穴の並びが整然、不規則と各箇所で差がある。不規則な箇所は比較的初期に、整然と並んでいる箇所は後期に造られたものと考えられている。殆どの穴を自由に入り見学できるが、心ない者により遺跡の損壊が行われた例もある。

岩山の下方には、ヒカリゴケが自生している穴がある。関東平野におけるヒカリゴケの自生地は非常に貴重であり、「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」として国の天然記念物に指定されている。近年は自生している穴の乾燥化が進み、ヒカリゴケが著しく減少したため、穴の中に水を満たした鉢を置いて湿度を保つ対策をしている。ヒカリゴケが自生している穴には鉄格子がはめられており入ることはできない。

発掘の歴史と論争[編集]

弥生土器の発見者である東京大学の大学生坪井正五郎は、1884年(明治17年)人類学会を創設した。そして大学院生となった坪井は1887年(明治20年)、卒業論文の一環として吉見百穴の発掘をおこない、地元の素封家貴族院議員、郷土史家根岸武香が発掘を支援した。吉見百穴の発掘は、日本における人類学、考古学の黎明期に、その中心人物である坪井の手によっておこなわれたものであり、日本考古学史上重要な位置を占める。

発掘調査の後、坪井が唱えた説は横穴を住居とするものである。その趣旨は以下の通り。

  • 住居用の設備、構造を有している。
  • 日本人の住居としてはサイズが小さすぎる。
  • よってコビトのような日本の先住民族、コロボックルの住居として作られたものであろう。
  • その後、古墳時代に葬穴用に再利用された穴もある。

しかしすぐに、弥生土器の共同発見者であり人類学会創設の同志である白井光太郎が匿名で学会誌に反論を掲載した。白井は、横穴はであるとした。白井ら及び後の研究による反論の趣旨は以下の通り。

  • 住居とするだけの十分な証拠がない。
  • またコロボックルの存在確認が出来ない。
  • 台座状の構造や副葬品、壁画など古墳の石室と同様の特徴がある。
  • 薄葬令が出された時期と穴建設がさかんとなった時期がおおむね一致する。
  • したがって横穴は最初から墓として作られたものである。住居ではない。

当初、坪井対白井の構図に論客を交えて『居穴か墓か』論争が続いたが、明治時代から大正時代にかけての考古学の発達及び坪井の死去(1913年(大正2年))によりコロボックル住居説は衰え、集合墳墓という説が定説となっていった。そして吉見百穴は1923年大正12年)国の史跡に指定された。また地元松山高校郷土部は永く地域の埋蔵文化財の調査をおこなっており、吉見百穴についても調査に貢献している。

地下軍需工場跡[編集]

軍需工場跡

太平洋戦争中、この岩山の地下に中島飛行機の地下軍需工場を建設するため、岩山の最下部に大きなトンネル(直径3メートルほど)が碁盤の目状に掘られ、その出入口として吉見百穴には3ヶ所の坑口が掘り出された。また、吉見百穴のすぐそばを市野川蛇行して流れていたが、軍需工場の前面に用地を確保するため、流路を西側へ移動する河川改修も合わせて行われた。この際、元から存在していた横穴が十数個崩されて消滅している[2]。掘削の際、3000〜3500人の朝鮮人労働者が動員された。これらの軍用トンネルの内壁は、ほぼ素掘りのままとなっている。夏期は涼風が吹き出すことがある。軍用トンネルの奥は危険なため、途中から鉄柵で塞がれている。

「百穴」の読み方[編集]

  • 「ひゃくあな」「ひゃっけつ」という2種類の読み方があり、歴史辞典、考古学辞典等にも両様の読み方がある。地元では「ひゃくあな」と呼ばれており、史跡管理者である吉見町のウェブサイトでも「吉見百穴(よしみひゃくあな)」と読みを付けている。
  • 吉見百穴は、国の史跡に指定されているが、文化庁の「国指定文化財等データベース」では「吉見百穴(よしみひゃっけつ)」と読みを付けているが、ヒカリゴケ自生地天然記念物の登録(吉見百穴ヒカリゴケ発生地)での読みは「よしみひゃくあな」であり、混在している。

その他[編集]

  • 岩山の異様な外観や、素掘りのままの軍用トンネル跡などが、悪の秘密結社の基地といった雰囲気に合っているのか、仮面ライダーをはじめとする等身大ヒーロー番組や、ウルトラマンシリーズなどの実写特撮番組のロケ地として、よく使われている[3]
  • 吉見百穴の約2.5キロメートル北東には、同時代の遺跡黒岩横穴墓群」がある。
  • 近くには松山城 (武蔵国)がある。この城を甲斐武田氏北条氏との連合軍で攻めた際に、「もぐら戦法」で金山掘りに穴を掘らせて地下から攻めようとしたという言い伝えがある。事実は不明だが、吉見百穴を見た武田軍がこの戦法を思いついたという説もある(新田次郎の小説「武田信玄」ではこの説を取り入れている)。

交通[編集]

画像[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 大正12年内務省告示第57号(『官報』第3178号、大正12年3月7日、p.147
  2. ^ 戦後70年:吉見百穴で戦争遺跡展 町が初開催、地下工場や壕の写真/埼玉”. 毎日新聞 (2015年4月8日). 2015年9月6日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年9月6日閲覧。
  3. ^ 悪の組織のアジト? 古代遺跡と戦争遺跡が「同居」する謎の吉見百穴 埼玉 - 産経ニュース、2014年3月15日、2015年9月6日閲覧。

関連事項[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯36度02分21秒 東経139度25分18秒 / 北緯36.03917度 東経139.42167度 / 36.03917; 139.42167