吉沢康一

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吉沢 康一(よしざわ こういち 1969年4月15日-)は、日本スポーツライター1990年代浦和レッドダイヤモンズのサポーター集団クレイジー・コールズの中心メンバーとして活動した[1][2]埼玉県立川口高等学校東京経済大学卒業[3]

経歴[編集]

埼玉県与野市(現・さいたま市中央区)出身[4]。与野市は隣接する浦和市(現・さいたま市浦和区)と並んでサッカーが盛んだったこともあり少年時代からサッカーに親しむ。同郷の先輩の金子久が所属する古河電気工業サッカー部のファンだったが[4]、怪我が多かったこともあり高校時代で競技生活を引退[4]

大学在学時に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)発足に併せて三菱自動車工業サッカー部を前身とした浦和レッドダイヤモンズが結成され、1992年9月Jリーグカップが開催されるとサポーターとしての活動を始める。クレイジー・コールズと名付けられた集団を率いてサポーターをまとめ上げ、豊富なアイデアで応援を盛り上げたが[1]1995年秋に浦和所属の田口禎則とトラブルになったことを契機にサポーターの第一線から退いた[5][6]

1996年よりスポーツライターに転身[7]、浦和レッドダイヤモンズや高校サッカーを中心に取材を続けている。代表作に盛岡商業高等学校サッカー部に密着した『じょっぱり魂』、1998 FIFAワールドカップに初出場したサッカー日本代表をサポーターの視点から記した『ぼくたちのW杯―サポーターが見た!フランスへの熱き軌跡』を監修した。またJFA公認C級コーチライセンスを取得しサッカー指導者としても活動している[8]

評価[編集]

サポーターとしての活動期間は短かったが、「浦和サポーターの成功には、初期に中心的役割を担ったコールリーダーによる動機付けが大きく影響している」[9]、「功罪相半ばする部分もあるが、吉沢と植田朝日ウルトラス・ニッポン)と河津亨(IN.FIGHT)の3名がいなければ日本のサポーター文化は10年遅れていただろう」[10]、「Jリーグのサポーターの中で彼らほど、サポーターもスタジアム(劇場)の一部なのだということを自覚しているサポーターはいないだろう(中略)。これこそ、吉沢康一とCCがJリーグ黎明期の、わずか数年の間とはいえ、レッズのゴール裏に種をまき、育んだものと言えるだろう」[2]と評されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b 大住 1998、78頁
  2. ^ a b 和田彰二「浦和レッズサポーター、はじまりの時」『浦和レッズサポーターズ』エイ出版社、2009年、24-25頁。ISBN 978-4-7779-1266-7
  3. ^ 大住 1998、63頁
  4. ^ a b c 大住 1998、64頁
  5. ^ 大住 1998、99頁
  6. ^ 今明かす事件の真相『僕が浦和レッズを出禁にした理由』(吉沢康一)』ロクダス、2019年12月13日。2020年1月18日閲覧。
  7. ^ 【5.15 ハッピーバースデー!Jリーグ】特別コラム:Jリーグサポーター、それぞれの1993年5月15日(2)(07.05.15)”. J'sGOAL (2007年5月15日). 2011年3月19日閲覧。[リンク切れ]
  8. ^ 第4回「Jクラブを信州に!」フォーラム 議事録”. AC長野パルセイロ サポーターズフォーラム (2009年11月24日). 2011年3月19日閲覧。
  9. ^ 岡田康宏「第16章 ユナイテッド・スカルズとサポーターという生き方」『ジャイアントキリングを起こす19の方法』東邦出版、2010年、239頁。ISBN 978-4-8094-0909-7
  10. ^ 大野勢太郎、レディオパワープロジェクト『浦和REDSの真実 2004』広報社、2003年、105頁。ISBN 4-906654-19-3

参考文献[編集]

関連項目[編集]