司馬ヨウ

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本来の表記は「司馬繇」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

司馬 繇(しば よう、? - 304年)は、西晋皇族思玄(しげん)[1]

生涯[編集]

司馬懿の子司馬伷の子[1]。生母は諸葛誕の娘なので諸葛誕の外孫にあたる。東安公[1]・東安王の地位にあった。

291年、東安公の地位にあった際に八王の乱の序幕となる楊駿殺害に加わり、その後は自分の生母の一族に文鴦文欽の子)が復讐する事を恐れて彼を反逆で誣告し、三族皆殺しにさせた[1]

その後、尚書左僕射となるが、304年に自らも八王の乱により成都司馬穎に殺害された[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

引用元[編集]

  1. ^ a b c d e 中国『三国志全人名事典』、P137

参考文献[編集]