前原遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Japanese Map symbol (Historical site-Place of scenic beauty-Natural monument-Protected animal plant).svg 前原遺跡
前原遺跡の位置(多摩地域内)
前原遺跡
多摩地域における位置
別名 小金井市No.12遺跡
所在地 東京都小金井市前原町中町
座標 北緯35度41分37.4秒 東経139度30分26.1秒 / 北緯35.693722度 東経139.507250度 / 35.693722; 139.507250座標: 北緯35度41分37.4秒 東経139度30分26.1秒 / 北緯35.693722度 東経139.507250度 / 35.693722; 139.507250
標高 50–52 m (164–171 ft)
種類 遺跡(集落跡)
歴史
時代 後期旧石器時代縄文時代近世江戸時代

前原遺跡(まえはらいせき)は、東京都小金井市前原町一・二丁目および中町四丁目にある後期旧石器時代縄文時代近世遺跡である[1][2][3]

遺跡の概要[編集]

後期旧石器時代~縄文時代、近世の集落遺跡である。野川の河川改修により発掘調査が行われた。後期旧石器時代は前半期~終末期の計6枚の文化層が検出されている。縄文時代は中期~後期の集落跡である。近世は土壙墓1基が検出されている。

武蔵野台地の南端、国分寺崖線の南側、立川面に位置する。本来は野川の右岸に立地していたが、河川改修の結果、現在では遺跡範囲の北側部分を野川が横断する形となっている。立川ローム層Ⅹ層の下位まで確認され、以下シルト・砂層~礫層に移行し、立川1面に相当する。遺跡の標高は50~52mである。

近隣には、同じ野川右岸、立川面の遺跡として西側に貫井南遺跡、東側に七軒家遺跡があり、対岸の野川左岸にはやや東寄りに新橋遺跡、さらに東側に野川中洲北遺跡がある。国分寺崖線上の武蔵野面には中山谷遺跡、西側に西之台遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。

調査の歴史[編集]

1975年(昭和50年)に野川改修工事に伴い発掘調査が行なわれ、後期旧石器時代の6枚の文化層と縄文時代中期~後期の竪穴住居跡10軒、近世の土壙墓などが検出された[1][2][3][4]

主な遺構[編集]

主な出土品[編集]

遺跡の変遷[編集]

後期旧石器時代[編集]

前半期[編集]

  • Ⅶ層:石器7点が1カ所の集中部から出土した。内訳はスクレイパー2点、剥片5点。すべてチャート製。礫群は伴わない[1][4]

後半期[編集]

Ⅳ下層、Ⅳ中2層、Ⅳ中1層、Ⅳ上層が該当する[1][4]

  • Ⅳ下層:石器285点が5カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器11点、台形様石器1点、角錐状石器1点、スクレイパー7点、彫器1点、使用痕剥片1点、石核17点、剥片243点、石核再生剥片2点、ハンマー1点。黒曜石製のものがもっとも多く、次いで砂岩、珪質粘板岩なども利用している。礫群13基を伴う[1][4]
  • Ⅳ中2層:石器705点が9カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器44点、台形様石器11点、角錐状石器6点、スクレイパー9点、彫器1点、ドリル1点、使用痕剥片19点、石核36点、剥片577点、礫器1点。黒曜石製のものがもっとも多く、次いでチャート、砂岩なども利用している。礫群13基を伴い、とくに3号礫群は直径8mの範囲から2544点(計399kg)の礫が出土した。日本列島の後期旧石器時代において最大級の礫群である[1][4]
  • Ⅳ中1層:石器209点が13カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器41点、スクレイパー3点、彫器6点、使用痕剥片13点、石核17点、剥片210点(石刃多数を含む)、石核再生剥片1点、礫器7点、磨石1点。大半が凝灰岩製で、他にチャート、珪質粘板岩なども利用している。礫群11基を伴う[1][4]。ナイフ形石器は二側縁加工のものが卓越し、先断形が伴う。いわゆる「砂川型式期」[5]に該当する。
  • Ⅳ上層:石器145点が2カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器7点、台形様石器1点、石槍4点、スクレイパー6点、彫器5点、使用痕剥片5点、石核4点、剥片114点、礫器1点。大半が黒曜石製である。礫群2基、配石1基を伴う[1][4]

終末期[編集]

  • Ⅲ層:石器69点が2カ所の集中部から出土した。内訳は石槍4点、スクレイパー3点、彫器1点、石核1点、剥片57点、礫器3点。砂岩製、次いで粘板岩製のものが多い。石槍は大型の両面加工である。礫群1基、配石3基を伴う[1][4]

縄文時代[編集]

草創期[編集]

隆起線文土器、有舌尖頭器が出土している。遺構は検出されていない[2][4]

早期[編集]

早期後半の貝殻条痕文系土器が出土している。スタンプ形石器が伴うものと考えられる。遺構は検出されていない[2][4]

前期[編集]

花積下層式、関山式、諸磯a~c式、十三菩提土器が出土している。遺構は検出されていない[2][4]

中期[編集]

勝坂2式期の竪穴住居跡6軒、土坑3基、加曾利E1式期の竪穴住居跡1軒が検出されている[2][4]

後期[編集]

称名寺式期の柄鏡形住居跡1軒、土坑2基、堀之内1式期の竪穴住居跡2軒が検出されている[2][4]

近世[編集]

土壙墓1基が検出されており、熟年男性1体の人骨と寛永通宝、数珠が出土している[3]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

参考文献[編集]

発掘調査報告書[編集]

  • 国際基督教大学考古学研究センター 『前原遺跡』 3巻〈Occasional Papers〉、1976年 (原著1976年)。 NCID BA74855905https://sitereports.nabunken.go.jp/84526 

関連項目[編集]

旧石器時代の遺跡一覧

外部リンク[編集]