伊達宗彰

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伊達宗彰

伊達 宗彰(だて むねあき、1905年明治38年)3月6日[1] - 1969年昭和44年)11月29日[1])は、日本の華族政治家実業家貴族院侯爵議員。宇和島伊達家11代当主。

宇和島藩伊達家11代当主。伊達紀隆(ただたか、9代宗徳の三男)の三男。母は北条氏恭の娘・智子。養父は侯爵伊達宗陳。妻は松平慶民の娘・美智子。子に伊達宗礼(12代当主)、伊達宗忠葛城素子葛城茂敬夫人)、渡部順子渡部貞二夫人)。

13代当主は宗礼の子の伊達宗信(1971-)

経歴[編集]

初名は彰。1909年(明治42年)、伯父である伊達宗陳の養子となる。養父の死去に伴い1923年(大正12年)3月10日、家督を相続し侯爵を襲爵[1]。家督の相続にともない、1925年(大正14年)3月14日、名前を宗彰に改めた[2]。1927年(昭和2年)、東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。また、斎藤実内閣では、新居善太郎入間野武雄ら二人と共に、内閣総理大臣秘書官の一人として活躍した。1935年3月5日、満30歳に達し貴族院侯爵議員に就任[3]火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任[4])。

その後、大蔵事務官、大蔵省広島財務局長などに就任した。華族ということで部下ははじめ緊張したが、いたって庶民的で部下思いの穏やかな人柄に、みなたちまち魅了されたという。

1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下の日はたまたま在局しておらず直撃の難を逃れ、直後に庁舎(財務局は、堅牢建物ということで、袋町の日銀に疎開していた)に駆けつけて職員の救護にあたった。この時、外傷の少ない元気な者を指揮してさまざまな活動(負傷者の看護・移送、遺体の移送火葬など)を行なったが、元気に見えた者が突然鼻血を出して死んでいくのを見て、後年「原爆のことをよく知らなかった。気の毒なことをした」ということを書き残している。草履ばきで髪を振り乱し、部下の切り傷火傷の手当て看病から遺体の移送、そして木材を集めて火葬まで自らおこなったことについて、部下は「このような局長が他にいただろうか」と感謝している。

昭和42年、この時の部下の手記を集めた「原爆の記」を自費出版したが、これは部数も少なかったため、生き残った旧部下らが昭和55年に新しい手記と伊達局長の思い出の記を加えて再販した。(「広島財務局原爆被災者の記録 原爆の記」庭山慶一郎編 財団法人大蔵財務協会刊)。

1957年に日本不動産銀行常務取締役、1964年に清水建設相談役などに就任した。1949年には宇和島城宇和島市に寄付している。64歳で没すると、家督は嫡男・宗禮が継いだ。死因は心筋梗塞。

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻、59-61頁。
  2. ^ 『官報』第3770号、大正14年3月19日。
  3. ^ 『官報』第2451号、昭和10年3月7日。
  4. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』18頁。
  5. ^ 『官報』第3101号「叙任及辞令」1937年5月8日。

参考文献[編集]

  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位
先代:
伊達宗陳
侯爵
宇和島伊達家第3代
1923年 - 1947年
次代:
華族制度廃止