伊藤小左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

伊藤 小左衛門(いとう こざえもん)は、江戸時代初期の福岡藩の人物である。博多の地で2代にわたって活躍した豪商であり、ここでは主に2代目小左衛門(? - 寛文7年(1667年))について扱う。

生涯[編集]

半生[編集]

博多に出て、その商才を発揮して財を築いた初代の跡を継いだ2代目小左衛門は、同じく博多の豪商である大賀宗伯とともに福岡藩主黒田氏御用商人となった。そして、長崎代官末次平蔵や西村隼人・大賀九郎左衛門ら商人達とともに、直接朱印船を派遣することの無かった黒田氏に代わって海外との貿易活動を行った。

そして正保4年(1647年)6月、ポルトガル船が来航禁止令を破って長崎に入港して貿易再開を願い出た際、当時の長崎警備役であった福岡藩2代目藩主黒田忠之のため大いに尽力し、これを賞せられて50人扶持を与えられた。

浜口町[1]に在住していたが、やがて長崎にも出店を設けて移り住んだ。船津町や浦五島町などにも屋敷を構えて、博多と往来して商売し、長崎奉行の接待のため五島町の屋敷を提供するほどにもなっていた。この当時、小左衛門は毎年銀10貫を消費し、通詞乙名から銀7000貫以上の資産をもつと噂された[2]。それだけの資産を得るに至った背景には、出雲産や広島産の鉄類の売買や武器の生産に従事したこと[3]だけでなく、中国・朝鮮との密貿易による利益もあったといわれる。また、の復興を願いと戦った鄭成功とも何度も貿易を行ったとされる。

密貿易の発覚と処刑[編集]

寛文7年(1667年)、筑後柳川出身で、長崎浜町居住の江口伊右衛門の下人で、柳川領にあった平左衛門という者が、柳川藩当局に訴え出たことから、伊藤小左衛門の密貿易が発覚した。その訴えは、伊右衛門が対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、武具を朝鮮に密売したというものであった[4]。伊右衛門を柳川藩の長崎蔵屋敷で捕え、牢舎に入れて取調べを進めた結果、密貿易に関わる者達が判明した。

これにより、伊藤小左衛門をはじめとし、長崎の浜町乙名浅見七左衛門、新大工町の油屋彦右衛門、築町の塩屋太兵衛、炉粕町の中尾弥次兵衛、そして対馬の小茂田勘左衛門、亀岡平右衛門、扇角右衛門、更に福岡領の高木惣十郎、篠崎伝右衛門、前野孫右衛門、唐津藩の今村半左衛門、島原領日見村の加兵衛、小浜村の利兵衛、熊本藩八代の九郎左衛門、大坂の仁兵衛、長兵衛、庄左衛門以下、全部でおよそ100人近い者が捕えられた。

密貿易は、数年来の計画的なもので、長崎・博多・対馬から島原・熊本・唐津各領だけでなく、上方の大坂にまで及ぶ大掛かりなものだった。その中心人物が伊藤小左衛門であり、寛文2年(1662年)から[5]、5年間で7回にわたって小茂田勘左衛門や扇角右衛門らと共謀して出資し、朝鮮に武具を密売していたのであった。

小左衛門と浅見七左衛門の2人は磔刑となり、40数人の者が斬首・獄門などの死刑、同じく40数人が在所からの追放に処された。小左衛門の子である2人の男児も縁座させられ、そのうち長崎にあった1人は父と同日に長崎で斬首。博多にいたもう1人は、長崎奉行から福岡藩に命じ、博多で斬首させた。博多の高木惣十郎は福岡藩当局の手で捕え、長崎に召し出して、ここで処刑。対馬の小茂田勘左衛門は、近江大津で捕えて京都の牢舎に入れ、ついで大坂に廻し、その後長崎に召し連れ、長崎奉行所で磔とする旨の判決を下した上で、対馬で刑の執行が行われた[6]

この密貿易は、福岡藩自身も関わっていたのではないかとも言われており、3代目藩主の黒田光之は小左衛門の命を救えなかったことを終生悔やんだ。

小左衛門の屋敷跡には、万四郎夷社(稲荷社ともいう)が祀られた[7]。近代に入り、万四郎神社と称し、小左衛門とともに処刑された2人の子・小四郎と万之助を祀る神社となった。伊藤小左衛門の墓は、妙楽寺[8]にある。

事件から50年後の享保期に、近松門左衛門は伊藤小左衛門をモデルにして作った浄瑠璃の戯曲『博多小女郎浪枕』を発表した。

脚注[編集]

  1. ^ 現在の福岡県福岡市博多区下呉服町と中呉服町にあたる。
  2. ^ 『長崎オランダ商館の日記』[要ページ番号]
  3. ^ 『西村家文書』[要ページ番号]
  4. ^ 『華蛮交易明細記』[要ページ番号]
  5. ^ 『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』148頁では、「寛文五年から」となっている。
  6. ^ 『犯科帳』[要ページ番号]
  7. ^ 『筑前名所図会』[要ページ番号]
  8. ^ 博多区御供所町(ごくしょまち)。

参考文献[編集]