川之江城

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川之江城
愛媛県
天守(復元施設)
天守(復元施設)
別名 仏殿城
城郭構造 山城
天守構造 不明(模擬天守:望楼型3重4階、鉄筋コンクリート構造)
築城主 土肥義昌
築城年 南朝延元2年/北朝建武4年(1337年
主な改修者 加藤嘉明
主な城主 河野氏土肥氏細川氏長宗我部氏小早川氏福島氏池田氏小川氏加藤氏
廃城年 慶長20年(1615年)頃?
遺構 石垣、堀切
指定文化財 なし
再建造物 模擬天守・櫓
位置 北緯34度0分46.8秒
東経133度34分3.2秒
座標: 北緯34度0分46.8秒 東経133度34分3.2秒

川之江城(かわのえじょう)は、愛媛県四国中央市川之江町の鷲尾山(城山)にある日本の城である。別名の仏殿城の名でも著名である。

概要[編集]

伊予讃岐土佐阿波を結ぶ交通の要衝である川之江の鷲尾山山頂に位置した川之江城は、南北朝時代から戦国時代にかけての城であり、別名仏殿城といわれるように本来は仏閣であった。

昭和59年(1984年)に川之江市制施行30周年記念事業の一環として城山公園整備事業が行われ、本丸跡に天守、涼櫓、櫓門、隅櫓、控塀などが建築された。犬山城天守を模した天守であり、その他の石垣や櫓、城門等も史実に即したものではなく、当時の名残を留めるものは、模擬天守の石垣の周囲に残存する僅かな石垣だけである。

城の縄張りは標高62mの鷲尾山山頂を主郭とする階郭式の山城である。城地の主要部分は石垣が配されており、加藤嘉明再建時のものと見られる。また、山を区画するように堀切や竪堀も存在し、これらは中世期の名残と推測される。

歴史[編集]

南北朝時代南朝方の武将であった河野氏の砦のひとつとして、土肥義昌南朝延元2年/北朝建武4年(1337年)に川之江城を築いた。しかし南朝興国3年/北朝暦応5年・康永元年(1342年)に細川頼春の攻撃を受けて落城、土肥義昌は討ち死を遂げた。交通の要衝であった川之江城はそれからも攻略対象となり、南朝 : 正平19年/北朝 : 貞治3年(1364年)と、南朝 : 天授5年/北朝 : 永和5年・康暦元年(1379年)にも落城の憂き目にあっている。その後細川野州家の持城になっていたが、細川通薫は独力での川之江の維持が不可能として、毛利氏の助力を求めて備中国へと去り、この地は河野氏に譲渡された。

河野氏の所領になった川之江城は妻鳥友春が城主となったが、元亀3年(1572年)に三好氏配下の薦田大和守の攻撃を受けている。その後、妻鳥友春は金子元宅を通じて土佐の長宗我部氏へ寝返ったため、河野氏配下の河上安勝の攻撃を受けて落城、河上安勝が城主となる。しかし、天正13年(1585年)に土佐の長宗我部氏の攻撃を受けて、川之江城は再び落城、河上安勝も討ち死にした。

長宗我部氏の攻略からわずか数ヶ月後の天正10年(1582年)5月上旬に、豊臣秀吉の四国平定軍が四国へ侵攻を開始(四国攻め)。怒涛の勢いで四国各地を席巻する。川之江城も豊臣軍による攻囲を受けたが、攻囲中の7月25日に長宗我部氏は降伏して、川之江城は開城となった。以後の川之江地方は小早川氏福島氏池田氏小川氏と目まぐるしく領主が変わったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に伊予国に移封された加藤嘉明が川之江を領すると、慶長7年(1602年)に城を織豊系城郭へと改築した。しかし、嘉明が居城を伊予松山城へ移すと川之江城は廃城になった(一国一城令で廃城になったとも)。[注釈 1]

一柳直家寛永13年(1636年)に川之江藩を立藩し、城を再築しようとしたが、寛永19年(1642年)に死去。領地は収公され、以後の川之江は天領になったため再築されることはなかった。

アクセス[編集]

国道11号山下公園前交差点の川之江城標識から西へ折れ、約650m先の金生川大江橋手前を鋭角に右折、約350mで城山公園麓に到着。一方通行進入禁止の標識手前すぐ左の登り道に進入、約350mで城山公園山頂駐車場に到着。

付近の観光スポット[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 川之江城の資料館の展示では、慶長16年(1611年)に伊予松山城築城の際に破却され、その部材が転用された可能性があるとしているが、根拠は両城に同じ模様の瓦が出土したためという曖昧なもの(発注者や製造元が同じであれば同一のものが作られる場合がある)で、実際に転用されたかは不明である。

出典[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]