中院通秀

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中院通秀
時代 室町時代中期 - 後期
生誕 正長元年(1428年
死没 明応3年6月22日1494年7月24日
改名 通時(初名)→通秀→妙益(法名)
別名 号:十輪院内府
官位 従一位内大臣
主君 後花園天皇後土御門天皇
氏族 村上源氏中院家
父母 父:中院通淳、母:中院通敏の娘
兄弟 通秀肖柏
女子
養子:通世[1]
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中院 通秀(なかのいん みちひで)は、室町時代中期から後期にかけての公卿歌人准大臣中院通淳の長男。初名は通時。官位従一位内大臣十輪院内府と号す。弟に歌人として高名な肖柏がいる。日記『十輪院内府記』の記者として知られる。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『実隆公記』の内容に従って記述する。

歌人としての通秀[編集]

実隆公記』を見ると、通秀は歌人として実隆宗祇らと共に歌会に参加している様子が窺える。

文明15年(1483年)10月[8]には足利将軍家から和歌打聞について打診があった。通秀は実隆らとかねてから盛んに歌会や和漢御会を催して参加していたので、以後も実隆らと歌会や和漢御会に参加していくのである。

中院家久しぶりの内大臣[編集]

中院通顕以来、通冬通氏通守通淳と4代にわたって内大臣に昇ることができなかったが、通秀は中院家としては久しぶりに内大臣に昇ることができた。『実隆公記』によれば、文明17年(1485年)3月16日に行われた扇合わせの歌会に通秀も参加予定であったが、腫物の病のため不参加で扇を寄し兆子等の計らいをしたとある[9]。そして同月25日、通秀が望んだ内大臣に任ずるよう消息をもって宣下があった[10]。続けて同月27日、内大臣を辞した[11]

内大臣を辞した通秀は、文明17年(1485年)4月7日に御所で行われた和漢御会に出席している[12]ので、この頃には病が癒えて歌会などに参加できるようになったと考えられる。

『園太暦』の買取[編集]

『十輪院内府記』によれば[13]洞院公賢の日記『園太暦』約125巻を公賢5代の末孫である洞院公数から約1000疋で入手したことがわかる。

脚注[編集]

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  1. ^ 久我通博の末子
  2. ^ 通淳が権大納言を辞したことによる挙任である。
  3. ^ 源氏公卿としては前参議北畠教具が代わって権中納言に任ぜられている。
  4. ^ 神木が洛中に持ち込まれ藤原氏公卿が出仕できなかったため。
  5. ^ 『実隆公記』によれば文明13年1月8日条に通秀が従一位を望んで勅許があった旨の記事がある。さらに『十輪院内府記』文明13年1月8日条によれば、前日7日に申し入れていた従一位昇叙の件について勅許があったと記されている。しかし同時に任内大臣の申し入れに対しては、中院家からの内大臣が中絶しているためすぐには難しいとの仰せがあったとある。
  6. ^ 『実隆公記』文明13年1月8日条によれば、中院家では従一位で大納言に在任した例がないことから、従一位に叙せられると権大納言を辞すことになった。
  7. ^ 所労危急によって内大臣に任ぜられることを望み、内大臣に任ぜられるや辞した。しかし内大臣を辞したあとに病は平癒したのである。
  8. ^ 『実隆公記』文明15年10月6日条。
  9. ^ 『実隆公記』文明17年3月16日条。
  10. ^ 『実隆公記』文明17年3月25日条。中院家では四代にわたって中絶していた内大臣に任ぜられたことが記されている。
  11. ^ 『実隆公記』文明17年3月27日条によれば、四代の中絶の跡を受けて内大臣に任ぜられたのに丞相の位にあること3日で辞したのは不思議であると記している。
  12. ^ 『実隆公記』文明17年4月7日条。
  13. ^ 『十輪院内府記』文明15年4月30日条。

参考文献[編集]

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 史料纂集、『十輪院内府記』、奥野高広、片山勝、続群書類従完成会
  • 『実隆公記』、三条西伯爵家御蔵版、大洋社