三豊百貨店
三豊百貨店 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 삼풍백화점、 |
漢字: | 三豊百貨店 |
発音: | サンプンペックァジョム |
日本語読み: | さんほうひゃっかてん |
2000年式: MR式: 英称: |
Sampung Baekhwajeom Samp'ung Paekhwajŏm Sampoong Department Store |
三豊百貨店(サンプンひゃっかてん)は、大韓民国のソウル特別市瑞草区にかつてあった百貨店。1989年12月1日に開店[1]。売場が大部分を占めるA棟とスポーツセンターなどが入居するB棟、そしてその間に位置するコンコースで構成されていたが、1995年6月29日17時57分(KST)、営業中に突然A棟が両端の一部を残して崩壊し、2013年にバングラデシュのダッカ近郊ビル崩落事故が発生するまで、死者502名・負傷者937名・行方不明者6名という建物崩落事故としては最多の被害者を出す世界的にも例のない大惨事を起こした[2]。現場は残ったB棟とコンコースが解体された後もしばらく空き地のままだったが、現在は高級マンション「アクロビスタ」(Acrovista)が建てられている。
三豊百貨店崩壊事故[編集]
三豊百貨店崩壊事故 삼풍백화점 붕괴 사고 | |
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場所 |
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座標 | |
日付 |
1995年6月29日 17:57 (KST) |
概要 | 営業中の百貨店が崩壊 |
原因 |
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死亡者 | 502名 |
負傷者 | 937名 |
容疑 | 百貨店幹部3人、瑞草区長 |
賠償 | 約4000億ウォン |
崩壊の原因[編集]
当初この建物は、経営母体の三豊建設産業によって地上4階・地下4階建てのオフィスビルとする設計で起工したが、建設途中で三豊側が5階建てのデパートに用途変更することを決定した。三豊は、建設者の宇成建設に変更を要求したものの、同建設会社が設計変更を行うのは危険だとして拒否した。このため基礎工事が終わった段階で、三豊建設産業が直接建設することになった。
売り場に防火シャッターを設置するため、ビル中央部の柱の4分の1が撤去された。またビル中央部にエスカレーターを設置し吹き抜け構造とする際に、本来なら柱を補強すべきところを意匠を重視したために4分の3ほどの太さに削減し、鉄筋の数も削減した。その結果、ビル自体が構造的に強度不足になってしまった。加えて先述のとおり、当初計画より1フロア分を最上階に増やしたため、その階の建設に使用されたコンクリートだけで3,000トンもの重量増となったばかりか、80トンの給水タンクが屋上に設置されたことで、当初の計画通りの柱ですら過負荷となるほどの大きな負荷が建物全体に掛かるようになっていた。
さらに以下の点が事故の原因として挙げられる。
- 鉄筋の代わりに石油缶を詰めていた(ただし、ナショナルジオグラフィックチャンネル『衝撃の瞬間』では、この点に関して言及されていない)。
- 本来、梁を使用すべきところを、荷重制限のある柱で建物を支える建築工法(フラットスラブ構造)を取った。
- 前述の柱の細さに加えて、床の鉄筋の位置も正しくなかった。
- 当初の計画では最上階の5階は、建築基準を満たすため、ローラースケート場になる予定であったが、完成直前に経営陣の方針により建築認可を得た後、不正にレストラン街へ変更されていた。
- 1993年に屋上で87トンの大型冷房装置にローラーをつけて牽引して移動させたため、屋上や5階の柱周辺に負荷が掛かってひびが入り、コンクリートの強度が低下した。
- 事故発生前年の1994年には、当局に無断で地下に売り場を増設する工事を行い、これがさらに建物の強度を弱めた。
また、事故の前日に5階の従業員が天井(屋上スラブ)のひび割れに気づいており、事故当日の朝にはひび割れが大きくなっていたため、同従業員はすぐに上司に報告した。しかし、事故当日朝9時に三豊百貨店の経営陣が集まり緊急会議を開いたものの、営業を取り止める判断はされずに通常どおりの営業が開始された。さらに15時には、社長が呼んだ建築士が同百貨店に到着して建物の状態を調査したが、「閉店後に補修すれば問題ない」と過小評価した。一部に営業を続行する判断に対して反対意見が出されたものの、それを押し切って営業は継続された。しかも経営陣は建物の異常を把握していたにもかかわらず、デパート内の客と従業員に避難命令を出さずに、建物が崩壊する直前に真っ先にデパートから脱出した[1]。この時点で建物内のすべての滞在者に対して避難行動を促していれば、少なくともこれほどの被害者を出すには至らなかったはずで、経営陣の判断ミスが被害を大きくしたと考えられている。
このように建物の崩壊は、人災によって引き起こされた可能性が大きく、建築会社だけでなく経営陣の責任も追及され、同百貨店の会長と社長ら幹部3人が業務上過失致死傷容疑で逮捕、起訴された。会長は懲役10年6月の刑を受け、全財産を没収された(2003年10月に病死)。さらに当時の瑞草区長が三豊百貨店の3度にわたる設計変更と仮使用許可を承認した見返りとして、三豊百貨店側から1,300万ウォン(約150万円)の賄賂を受け取ったとして、収賄容疑で逮捕されている。
なお、当初の調査では原因として地震・ガス爆発・北朝鮮によるテロなど、さまざまな説が推定されていた。
事故の影響[編集]
- 当時の金泳三大統領は、三豊百貨店や被災者が救援と復旧に必要な行政・金融・税制などの補償上の支援を国から受けられるようにするため、三豊百貨店崩壊現場を特別災害地域に指定した。
- 韓国の主要テレビ(KBS、MBC、SBS、YTN等)は救助の模様を24時間中継で放送した。特に当時開局したばかりだったニュース専門放送局のYTNは、この事故からわずか10分で現場の映像を放送するなど速報力を発揮し、この結果同局への加入者が倍増した。
- この事故の影響でソウルを中心に高層マンションの価格が下落した。また80年代後半に韓国政府が住宅不足解消策としてソウル郊外に建てたマンションには手抜き工事の噂から売却が相次いだ。
- 久々の公選で選出された趙淳ソウル市長の就任式が7月1日に予定されていたが、この事故の影響で中止になった。
- 1994年10月の聖水大橋崩落事故や1995年4月の大邱市の地下鉄工事現場ガス爆発事故(大邱上仁洞ガス爆発事故)、そして三豊百貨店崩壊事故など、大規模な事故が連続して起きたことが契機となり、韓国では1995年7月に災難管理法が成立した。
- 事故後の韓国政府による緊急の全国高層建築調査では、建て替えが必要な建物は、全体の7分の1に及び、修理が必要とされたのは全体の5分の4に達し、韓国全体では実に98%の建物が何らかの欠陥を抱えていた事実が明らかになった[3][出典無効]。
- 世界中のマスメディアがトップでこの事故を報道し、事故発生から数日間にわたって次々と生存者が発見される度に大きく報じられた。最後に救出された女性は瓦礫の下で17日間も生存しており、この女性は後に日本のテレビ番組『九死に一生スペシャル』『世界衝撃映像100連発』で取り上げられた。
- この事故による補償総額は約4,000億ウォン(日本円(1996年平均レート)で約540億円)に及んだ。
- 映画『ノートに眠った願いごと』(原題:秋へ(가을로:カウルロ)、キム・テスン監督、2006年)は、この事故をモチーフにしている。2013年には同じく三豊百貨店崩壊事故をモチーフにしたドラマ『スキャンダル』が制作された[4]。その他複数のテレビドラマや映画、小説などでもこの事故は題材として取り上げられている。
関連項目[編集]
- 聖水大橋 - 漢江に架かっている橋の一つで、1994年10月に橋桁が落下して多数の死傷者を出した。
- 中央119救助隊 - 聖水大橋落下事故や三豊百貨店崩壊事故をきっかけに設置された消防防災庁直属の救助部隊。
- KB橋 - 低品質なコンクリートを使用した手抜き工事により倒壊、2名が死亡、国家の中枢ライフラインが切断された。
- ノートに眠った願いごと 崩壊事故を題材にした2006年公開の韓国映画。日本では2007年公開。
- 鄭梨賢(チョン・イヒョン) - 本事故をテーマにした短編小説「三豊百貨店」で第51回現代文学賞を受賞。
- ジャイアント (テレビドラマ) - 終盤、三豊百貨店をモチーフとしたと思わしき「万宝プラザ」が登場。建設費削減のため三豊百貨店同様柱を細くするなどの手抜き工事で建設されたため、最終的に崩壊する。
- ホテルニューワールド崩壊事故 - 1986年3月15日に発生し33人死亡、17人救出。事故の背景や原因が三豊百貨店崩壊事故と類似。
脚注[編集]
- ^ a b “韓国・デパート崩壊から19年 死者502人、沈没事故との共通点とは”. ハフポスト. (2014年6月30日) 2017年7月29日閲覧。
- ^ “【ビジネス解読】「あそこに行くのは自殺行為」と酷評される韓国「第2ロッテワールド」閑古鳥の惨状”. 夕刊フジ. (2015年2月15日) 2015年2月15日閲覧。
- ^ ナショナルジオグラフィックチャンネル『衝撃の瞬間』第4シーズン第5話『スーパーマーケット崩壊 "Superstore Collapse"』より抜粋
- ^ “韓国ドラマ『スキャンダル』ストーリー”. BSフジ. 2020年4月14日閲覧。
外部リンク[編集]
すべて朝鮮語のサイト。