ヴィクター・メトカーフ

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ヴィクター・メトカーフ

ヴィクター・ハワード・メトカーフ(Victor Howard Metcalf, 1853年10月10日 - 1936年2月20日)は、アメリカ合衆国政治家セオドア・ルーズベルト大統領の下で1904年から1906年まで第2代アメリカ合衆国商務労働長官を、1906年から1908年まで第38代アメリカ合衆国海軍長官を務めた。

生い立ちと家族[編集]

1853年、メトカーフはニューヨーク州ユーティカにおいて、ウィリアム・メトカーフ (William Metcalf) とサラ・ハワード (Sarah Howard) の間に生まれた。メトカーフはユーティカ市内の公立学校で学んだ。1871年、メトカーフはユーティカ市内のユーティカ・フリー・アカデミーを卒業し、翌1872年コネチカット州ニューヘイヴンラッセル・ミリタリー・インスティチュートを卒業した。

1872年、メトカーフはイェール大学の法学部に入学した。1875年、メトカーフは大学3年生にしてイェール大学法学大学院への進学を認められ、学部課程を中退した。翌1876年、メトカーフは大学院を卒業し、法学の学位を取得した。また同年、コネチカット州から弁護士として認可を受けた。

1877年、メトカーフはハミルトン・カレッジに入学し、法律の勉強を継続した。メトカーフは同年にニューヨーク州でも弁護士としての認可を受けた。

1881年、メトカーフはエミリー・コリン・ニコルソン (Emily Corinne Nicholson) と結婚した。メトカーフ夫妻は2人の子供をもうけた。

初期の政治活動[編集]

メトカーフは1877年にユーティカで弁護士業を開業した。1879年、メトカーフはカリフォルニア州オークランドへ移住し、弁護士業を継続した。メトカーフは主に不動産業や商業に関する案件を扱った。メトカーフはオークランドにおいて影響力のある法律家として有名となり、共和党に参加した。

合衆国下院議員[編集]

1898年、メトカーフはカリフォルニア州から合衆国下院議員として選出された。メトカーフは1899年から1904年まで3期6年、下院議員を務めた。議会においてメトカーフは海軍委員会歳入委員会に所属した。海軍委員会でメトカーフは巨大軍艦の建造を迫られる立場となった。また歳入委員会では、メトカーフは荒野の開拓を目的とした法案を起草した。メトカーフはセオドア・ルーズベルト大統領と、委員会運営に関する連絡をしばしば取り合った。

商務労働長官[編集]

1904年7月、メトカーフはルーズベルト大統領から商務労働長官に指名された。これは前任のジョージ・コーテルユーの辞任に伴うものであった。メトカーフは1906年12月まで商務労働長官を務めた。

海軍長官[編集]

1906年12月、メトカーフはルーズベルト大統領から海軍長官に指名され、商務労働長官を辞任した。これは前任の海軍長官チャールズ・ジョセフ・ボナパルト司法長官に転任したことに伴うものであった。メトカーフは海軍長官として、白い大艦隊の世界一周航海プロジェクト立ち上げに関与した。白い大艦隊は1907年12月バージニア州ハンプトン・ローズを出港した。1908年11月、メトカーフは健康的理由により海軍長官を辞任した。

晩年[編集]

海軍長官退任後、メトカーフはカリフォルニア州オークランドへ戻り、弁護士業を再開した。またメトカーフは銀行業にも関与した。1936年、メトカーフはオークランドで死去した。メトカーフの遺体は同市内のマウンテン・ヴュー墓地に埋葬された。

外部リンク[編集]

公職
先代:
ジョージ・コーテルユー
アメリカ合衆国商務労働長官
1904年7月1日 - 1906年12月16日
次代:
オスカー・ストラウス
先代:
チャールズ・ジョセフ・ボナパルト
アメリカ合衆国海軍長官
1906年12月17日 - 1908年11月30日
次代:
トルーマン・ニューベリ