マイケル・ソマレ

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マイケル・ソマレ

サー・マイケル・ソマレ: Sir Michael Somare1936年4月9日 - )は、パプアニューギニアの政治家。同国の首相を5期(1975年 - 1980年1982年 - 1985年2002年 - 2011年)務めた。国民同盟党党首。

パプアニューギニアで発行されている50キナ紙幣の裏面に肖像が描かれている。

人物・来歴[編集]

ラバウル出身。

柴田幸雄中尉の教育を受けた[1]

行政監理大学を卒業後、教員や放送記者を経て1965年にパング党を結成。1975年9月の同国独立で初代首相となり、「祖国の英雄」とされる。1997年に国民同盟党を旗揚げし、2002年6月の総選挙で同党が第1党になったことを受け、9月に就任した。

青年時代に日本に渡り、旅をして回った経験を持つ。2006年にも来日し、東京国際大学より名誉商学博士号を贈られた。

現在、シンガポールの病院に入院中。2011年6月に親族が、同年4月に健康上の理由で首相を辞したことを公表した。不在中の2011年8月に議会はピーター・オニールを新首相に選出したものの12月に最高裁判所が選出プロセスが違憲であったとしてソマレの復帰を指示した[2]。2012年5月21日に最高裁で再び首相として返り咲きを認められるも、6月の総選挙ではオニール率いる人民国民会議が第1党となり[2]、8月3日に議会が再びオニールを新首相に選出、ソマレもこれを認めたため、二重政府状態は解消された[3]

2015年旭日大綬章受章。

◇柴田幸雄さんについて、読売新聞大阪本社社会部編集「ニューギニア=新聞記者が語りつぐ戦争4」の一部を紹介します(平成4年5月20日、新風書房発行、「湖畔の学校」より、89-108頁)。

 昭和60年7月11日、東京・虎ノ門にあるホテルオークラの一室で、初老の日本人男性と、海を隔てた遠い国から來た中年の男性が、40年ぶりに感激の対面を果たした。(中略)

 南太平洋にある、この新しい独立国の最高指導者が再会を切望した相手は、ニューギニア戦に従軍した元日本軍将校で、宇都宮市内で小料理店を営む柴田幸雄さん(70)だった。

 柴田さんは、兵器や兵員を輸送する船舶工兵第9連隊の中尉だったが、指揮していた大発(大型発動機艇)を米軍の攻撃で失ってからは、現地民の宣撫(せんぶ)工作にあたった。

 昭和19年10月にセピック河口に近い湖畔の村、カウプで、住民の子供たちのために学校を開設。柴田さん自身が教師になり、終戦まで数の数え方や歌など教えた。その子供たちの中に、当時、8歳のソマレ氏がいたのである。(中略)

 カウプに限らずニューギニアの村に教育機関はなかった。柴田さんは子供たちに共通語だけでなく、簡単な計算や世界の地理、歴史を教えることができたら、どんなに素晴らしいだろうと思った。

 それは、もちろん対住民の宣撫工作を達成するための手段ではあったが、柴田さんにとってそれがすべてではなかった。子供たちに教育をほどこし、将来の国の独立の芽を育てたいという野心もあった。そして何より、この国の子供たちの置かれている状況を気の毒に思った。それが学校開設の動機だった。(以下略)

◇ソマレ氏との出会いについて畑中幸子著「ニューギニアから石斧(せきふ)が消えていく日=人類学者の回想録」の一部を紹介します(2013年10月31日、明石書店発行)。

 翌日(1984年6月26日)、東セピック州のセンギ知事に挨拶に行く。首相で独立の父と言われているマイケル・ソマレ氏を豪邸に訪ねたが、昨日夫婦でポートモレスビーに行って不在であった。オーストラリア時代にソマレ氏は原住民で初めてパングウ党という政党を作り、オーストラリア政府の役人たちから白眼視されていたが、自治・独立が近づくにつれ一部の原住民から英雄視された人である。私は1960年代半ば彼が放送局のウェワック支局でビジン英語のアナウンサーをしていた頃出会い、大戦後初めての日本人との出会いということでカタコトの日本語と英語で親しげに私に話しかけてきた。以来サチコ、マイケルと名前で呼び合う仲にまでなっていた。モレスビーではなかなか会うことの出来ない人だけにウェワックの私邸で会いパプアニューギニア社会の変貌を聞くつもりであったがチャンスを逃した。ポートモレスビーでソマレ首相はセピックに帰っている方が多いのではないかと聞いていたのだが。(173頁)

 ニューギニア本島は面積72万平方キロメートル、グリーンランドにつぐ世界第二の島で、東経141度以西はイリアンジャヤと呼ばれインドネシアの行政下にある。東部は1975年、オーストラリア行政から独立したパプアニューギニアで面積は多くの島嶼群も含み、約46万平方キロメートルある。国の大きさから見ると世界で54番目、ほぼスウェーデンの大きさに比較される。2012年(世界銀行)の推定人口で701万3829人である。(13頁)

 独立後、政府の行政組織のベースはプロヴィンス(州)である。スポーツ競技、政治の策謀にさえ影響を与えている。何人の首相が各州から出たか数年にわたり議論されてきた。各大臣や省庁のトップがしばしば州の間で全体にわたるようにはかられ、任命される。一方、国民の間でも地域主義(プロヴィンシャリズム)は強く、地域間での競争意識は激しい。

今日、国会での109議席のうち20議席は各州の代表として20名の知事が、残る89議席は全国民の代表として普通選挙で選出される。パプアニューギニアを理解するにはすべての分野にわたり地域主義(プロヴィンシャリズム)が介在していることを理解しておく必要がある。パプアニューギニアに明るい未来が描けるのに学校教育がある。町といわず僻地といわず小学校(コミュニティ・スクール)の教育に親が関心を持ちだしたことである。近代社会の仕事に子供たちを送りたいという親心であろう。シシミンのように近代世界と接して時間の淺い部族社会においてはしかりで、私が先に述べたパプア人の民族性ー進取の気性、モティベーションに活力を示す一方、伝統にこだわらないのは、国の門戸を開き西欧文化を容易に受け入れた約150年前の猛スピードで近代化に向かった日本を思いうかべるのであった。(308-309頁)

出典[編集]