フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア

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フランクリン・デラノ・ルーズベルトJr.
Franklin Delano Roosevelt Jr.jpg
アメリカ合衆国下院議員
ニューヨーク州アメリカ合衆国下院ニューヨーク20地区選出
任期
1949年5月17日 – 1955年1月3日
前任者 ソル・ブルーム
後任者 アーウィン・D・デイヴィッドソン
個人情報
政党 ニューヨーク自由党
民主党

フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア英語: Franklin Delano Roosevelt, Jr.1914年8月17日1988年8月17日)は、アメリカ合衆国の弁護士、政治家、実業家。アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの第5子。

生い立ちと結婚歴[編集]

カナダニューブランズウィック州カンポベロ島のルーズベルト家サマーハウスで生まれた。このため、アメリカ合衆国の市民権だけでなく、カナダ市民権を取得する権利も有していた。もっとも、この行使したかどうかは不明である。同名の兄弟がいたが、1909年11月に夭逝している。

1936年にレンサ球菌咽頭炎と命を脅かす合併症を発症した。最初の商業的に入手可能なサルファ薬であるプロントジルを使った治療は成功し、ホワイトハウスの医療スタッフが検討していた危険な外科手術は回避され、『ニューヨーク・タイムズ』やその他の新聞は大々的にアメリカにおける抗菌薬化学療法の時代の始まりを告げた[1]

ジェームズエリオット同様、トラブルが多く、特に交通違反が多かった。1934年には傷害事故を起こし、父が4500ドルを支払っている。[2]

5回の結婚歴がある。最初は1937年6月30日にエセル・デュポン(1916年1月30日 - 1965年5月25日)と結婚し、2人の息子がいた。

1949年に正式に離婚した。エセルは1965年5月25日、49歳で自殺した。

その後の妻スザンヌ・ペラン(1949年結婚、1970年離婚)、フェリシア・シフ・ウォーバーグ・サーノフ(1970年結婚、1976年離婚)、パトリシア・ルイサ・オークス(1977年結婚、1981年離婚)、リンダ・マッケイ・スティーブンソン・ウェイカー(1984年に結婚し、1988年に死去するまで連れ添った)と結婚した。

2番目の妻・スザンヌ・ペラン(1921年5月2日 - )との間は2人の娘がいた。

  • ナンシー・スザンヌ・ルーズベルト (1952年1月11日 - )
  • ローラ・デラノ・ルーズベルト (1959年10月26日 - )

4番目の妻・パトリシア・ルイサ・オークスとの間には、1人息子がいた。

  • ジョン・アレクサンダー・ルーズベルト (1977年10月18日 - )[3]

肺癌との闘病後、ポキプシーで1988年8月17日、74歳の誕生日に死亡した。

教育[編集]

1933年にグロトン校、1937年にハーバード大学、1940年6月にバージニア大学法科大学院を卒業した[4]

家族は彼の外見や振る舞いがとても父親似だと思っていた。兄ジェームズは「フランクリンは父の外見、話し声、笑顔、魅力、カリスマ性を持っていた。」(Franklin is the one who came closest to being another FDR.)と述べた[5]

海軍生活[編集]

第二次世界大戦中は海軍の下級士官として従軍、カサブランカ沖海戦での勇敢な働きにより勲章を受章した。父親の要請を受け、兄エリオット・ルーズベルトと一緒に、ウィンストン・チャーチル首相と1941年8月の大西洋会談、1943年1月のカサブランカ会談に参加した。また、テヘラン会談の前にもアフリカで父と会っている。

大西洋会談後、ニューファンドランド島アルジェンシャ英語版から、チャーチルと共に海を渡り、新たにアメリカが占領したレイキャヴィークの地に降り立った。それはイングランド、スコットランド、ウェールズ、アメリカの連帯を象徴するものであった[6]

そして駆逐艦メイラントの副長に就任し、1944年3月1日、少佐に昇進。7月18日には護衛駆逐艦ウルヴァート・M・ムーアの艦長となった。ウルヴァート・M・ムーアは太平洋で活動し、2機の日本軍機を撃墜、1隻の潜水艦を撃沈した。1945年9月2日に日本が降伏文書に正式に調印した際には、艦と共に東京湾にいた。驚異的な働きから"Big Moose"として知られ[7]、12個の従軍星章ブロンズスターメダルパープルハート章、そして、戦火の中において重傷を負った兵士を安全地帯へ移した勇敢さを評価され、シルバースターを授与された。

戦後[編集]

戦後、いくつかのニューヨークの法律事務所に務めた。ニューヨークのルーズベルト・アンド・フレイデン(Roosevelt and Freiden)法律事務所のシニアパートナーだった。彼のドミニカ共和国の独裁者ラファエル・トルヒーヨの表現は論争を引き起こし、1961年にトルヒーヨの暗殺前に取り消した。

政治家としても活動した。1946年にはハリー・S・トルーマン大統領の下で公民権に関する大統領委員会委員を務めた。1948年、兄弟と共にドワイト・D・アイゼンハワー支持を明確にし、民主党に反旗を翻した。しかし兄エリオットとは異なり、反共産主義的な立場を取り、コラムニストのスチュワート・オールソップによると、兄と親ソ活動について喧嘩となり、マスコミに兄に関する有害な情報を漏らした[8]

1946年、アメリカ革命の息子達エンパイアステート学会に参加した[9]

1949年にニューヨーク自由党からアメリカ合衆国下院特別選挙で議員に選出された。民主党員として1950年と1952年に再選された。1949年5月17日から1955年1月3日までニューヨーク州第20選挙区代表であった。

名門の出ではあるが、民主党の指導部からは不評であった。兄ジェームズが下院議員になると、サム・レイバーン議長はジェームズに "not waste our time like your brother did." と言った。また、ジェームズはフランクリンについて "had a dreadful record in Congress. He was smart, but not smart enough. He had good ideas and the power of persuasion, but he did not put them to good use. He coasted instead of working at his job, considering it beneath him, while he aimed for higher positions. He may have had the worst attendance record of any member of those days, and it cost him those higher positions." と書いている[10]

1954年、ニューヨーク州知事選挙に民主党の公認を受けて出馬しようとしたが、タマニー・ホール指導者カーマイン・デサピオ[11]から強い説得を受けて断念し、ニューヨーク州司法長官の公認候補となった[11]。他の全民主党候補者が当選したにもかかわらず、彼だけが共和党のジェイコブ・ジャヴィッツに敗北した。その後、母エレノアは反タマニー・ホール運動を始め、1961年にはデサピオを辞任させた[11]

1962年、母及び息子フランクリン・デラノ3世と。

1960年大統領選挙ウェストバージニア州予備選でジョン・F・ケネディの支援をし、対抗馬ヒューバート・H・ハンフリーが第二次世界大戦中の徴兵を逃れたことを非難した[12]

ケネディから後に、商務次官、アパラチア地域大統領委員会委員長に任命された。商務次官に関しては、ロバート・マクナマラ国防長官が海軍長官就任を拒否したことによるものである。"JFK and Franklin were friends and their families were close. Socially, Franklin spent a lot of time in the White House during JFK's reign. But when Kennedy was killed, Franklin fell from power."[13]

1966年のニューヨーク州知事選挙では自由党からニューヨーク州知事に立候補するも、共和党の現職ネルソン・ロックフェラーに敗れた。

1965年5月26日から1966年5月11日まで雇用機会均等委員会委員長を務めた。

1973年に兄エリオットが両親についての秘話を綴った "An Untold Story" を刊行すると、家族の先頭に立って非難した[14]

小さな牛の牧場を経営し、フィアットの自動車を輸入していた(フィアット会長ジャンニ・アニェッリは個人的な友人であった)。

受賞歴[編集]

第二次世界大戦中、海軍で以下の賞を受賞した。

参考文献[編集]

脚注
  1. ^ Medicine: Prontosil, 『タイム』1936年12月28日
  2. ^ Hansen, 106
  3. ^ (FDR Presidential Library)
  4. ^ Roosevelt, Franklin Delano, Jr., (1914 – 1988)”. Biographical Directory of Congress. Office of Art and Archives, Office of the Historian, United States House of Representatives. 2011年6月19日閲覧。
  5. ^ Roosevelt, 313
  6. ^ Hansen, 211-2, 262
  7. ^ Roosevelt, 269.
  8. ^ Hansen, 525
  9. ^ [1]
  10. ^ Roosevelt, 314
  11. ^ a b c Kandell, Jonathan (2004年7月28日). “Carmine De Sapio, Political Kingmaker and Last Tammany Hall Boss, Dies at 95”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2004/07/28/nyregion/carmine-de-sapio-political-kingmaker-and-last-tammany-hall-boss-dies-at-95.html?pagewanted=all&src=pm 
  12. ^ Caro, Robert (2012), The Years of Lyndon Johnson: The Passage of Power, New York: Alfred A. Knopf, pp. 85–86 
  13. ^ Roosevelt, 315
  14. ^ Hansen, 654
資料