フィンランド化

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フィンランド化(フィンランドか、: Finnlandisierung : Finlandization)とは、第二次世界大戦後冷戦下で、フィンランドのように議会民主制資本主義経済(自由主義経済)を維持しつつもソビエト連邦(ソ連)の意向に反しないよう進められた対外政策。

概要[編集]

フィンランドとソビエト連邦の外交関係になぞらえた語である。第二次大戦後、パーシキヴィ・ケッコネン路線と呼ばれる中立路線を皮切りに進められた軍事的に対立する大国間の紛争の局外に立とうとする外交政策で、この中立政策を表すものとして1948年のフィンランド・ソ連友好協力相互援助条約(Agreement of Friendship, Cooperation, and Mutual Assistance)の前文の「大国間の利害紛争の圏外に立ちたいとのフィンランドの願望」という言及が引用される[1]。フィンランドの中立政策はスイスやオーストリアのように条約や憲法といった法的基盤に基づく中立ではなく国家の対外政策として行われてきた(ただし、フィンランド領オーランド諸島に限っては歴史的経緯から非武装中立が国際条約により義務づけられている)[1]

フィンランドは東欧諸国のように衛星国にまではされなかったものの、監視下の制限された自由で、反ソ連とみなされる政治勢力・メディアを排除されていた。そうせざるをえないフィンランドの限られた主権を意味しており、永世中立国とは異なる近隣超大国(ソ連)に寄った中立化状態である[2]。強力な隣国が小さい国を制度的に支配している否定的な意味を含むが、この中立化政策のおかげで、冷戦時代にフィンランドは東欧の国々とは異なる、制限はされていても民主主義と自由主義経済を享受出来た。第二次大戦で大変な犠牲を払いながらもソ連と戦い、ナチスドイツが降伏する前に休戦したこと、1946年から1956年までの間にパーシキヴィ大統領を筆頭とする優れた指導者の手腕があったからと表されている[2]。フィンランドはソ連と友好協力相互援助条約を締結してソ連に協力することを対価に、資本主義や議会制民主主義を維持した[3]。(「ノルディックバランス」も参照)

沿革[編集]

背景[編集]

フィンランドは700年にわたってスウェーデンの支配を受け、その後は約100年にわたりロシアの統治下で大公国として高度の自治権が認められていたが、ロシア革命を機に1917年12月に独立した(1917年12月31日にはレーニン政権によって承認された)[1]

フィンランドは1920年代から中立政策をとっていたが、自国を援助する外国がなく、北欧の集団的中立体制による安全を追求するようになり、1938年5月のオスロでの北欧外相会議で中立の共同宣言が署名された[1]。一方でイギリスやフランスはバルト地域に大きな関心を示していなかったため、フィンランドは軍事的な交流のあったドイツに接近するようになったが、ソ連を刺激することになり1939年春からの両国間の協議でソ連側はフィンランド湾北沿岸への基地貸与を要求した[1]

1939年の独ソ不可侵条約の秘密プロトコルでソ連はフィンランドやバルト、東欧を勢力範囲とすることをドイツから認められ、ソ連はバルト三国での動きを活発化させた[1]。1939年10月から11月のフィンランドとソ連の交渉は決裂し、1939年11月末にソ連はフィンランドへの侵攻を開始した(ソ芬戦争[1]。頑強な抵抗に遭って1939年12月にソ連は一時的に攻撃を停止したが、1940年2月には攻撃が再開されてフィンランド軍は撤退し、3月13日に和平協定が締結された(冬戦争[1]

1940年8月になるとドイツはフィンランドと密約を交わし、1940年12月にはドイツ軍のフィンランドに駐留した[1]1941年6月に独ソ戦が開戦するとフィンランドも宣戦して戦争状態になった(継続戦争[1]。しかしドイツ軍のスターリングラードでの敗北など枢軸国の敗勢により、フィンランドは1944年9月にソ連と休戦協定を結び、その条件となっていた国内駐留ドイツ軍の追放のためドイツと開戦して1945年4月に完全撤退させた(ラップランド戦争[1]

中立政策[編集]

第二次大戦後、ユホ・クスティ・パーシキヴィ政権が現実主義に基づく中立政策として対ソ宥和政策をとり、ウルホ・ケッコネン政権もその路線を引き継いだ(パーシキヴィ・ケッコネン路線)[1]

冷戦下は政治・メディアを中心に監視下におかれ、反ソ・反露言動が事実上禁止されたため、フィンランドに重い影響をもたらした。フィンランドの小説家ソフィ・オクサネンは「ソ連はフィンランドを、ロシアに対する不適切な表現を従順に避ける国になるよう訓練した。そのやり方はいまや私たちの潜在意識に組み込まれている」と語っている[2]

2022年にフィンランド国際問題研究所のアルカディ・モシェス研究員は産経新聞の取材に、フィンランド化について、「フィンランドはソ連に戦争で大敗し、ほかに道がなかった。あれは小国としての苦渋の選択です」と苦々しそうに答えている[4]

冷戦後[編集]

1991年のソ連の崩壊により、フィンランドは完全独立を果たし、1995年には中立の立場を保ちながらEUに加盟した。このような経緯から、NATOには加盟していなかったが、フィンランドだけでなく、スウェーデンも中立の限界を考え、NATO加盟を考えるようになった。フィンランドのニーニスト大統領(中道右派)は、2022年の演説で、「フィンランドが行動と選択に自由をもっているというのは、我々がそう決めた場合には、軍事同盟と、NATOへの加盟申請の可能性も含まれている」と明言した[2]

冷戦後は、フィンランド化という極めて冷戦的な用語は死語になったと思われたものの、2000年代以降、中国の周辺諸国(例えばカンボジア、ラオス、韓国)[5]が中国を忖度する状況を言い表わす用語として復活した[6]

関連のある作品[編集]

  • ゲームソフト『バランス・オブ・パワー』(アスキー出版
  • ゲーム攻略本『バランス・オブ・パワー デザイナーズ・ノート』(アスキー出版) - ゲームの解説よりも、近世の外交駆け引きや他国への巧妙な内政干渉等の史実紹介に内容を割いている。フィンランド化についての解説も詳細に記述。

脚注[編集]

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参考文献[編集]

関連項目[編集]