タニンダーリ管区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
တနင္သာရိတုိင္‌း
タニンダーリ管区
(MLCTS: ta.nangsayi. tuing:)
Taninthayidivisionflag.png
州都 ダウェイ
地域 南部
面積 43,328 km²
人口 1,327,400
民族 ビルマ族ラカイン族モン族シャン族、Burmese-Thai、カレン族モーケン族マレー人
宗教 仏教イスラーム
Taninthayidivision.png

タニンダーリ管区(—かんく、Tanintharyi Division)、旧名テナセリムは、ミャンマーの行政区画である。それはクラ地峡上での、国土の細長い南部をおおっている。それは、西にアンダマン海と、東にタイと接している。北はモン州である。区都はダウェイ(旧称: タヴォイ)で、他の主要都市はベイ英語版(旧称「メルギー」、: Mergui - メルグイとも)及びタイとの国境の町カウタウン(旧称「ビクトリア・ポイント」)である。

管区は 43,328 キロメートルの領域をもち、1983年の国勢調査において、917,628 の人口を持つ。管区の ISO 3166-2 コードは、MM-05である。

歴史[編集]

歴史的にはKadaram英語版(630年 - 1136年)やクダ王国英語版(1136年 - )の一部であった。そのため、地名の「タニンダーリ」または「テナセリム」は、マレー語の "Tanah Sari" に由来し、"Tanah" は「土地」、"Sari" は「中心」を意味する、すなわち「中国」の意味である。この時期からの住人がモン族カレン族である。

1068年チョーラ朝en:Virarajendra Cholaen:Chola invasion of Kadaram (1068)で海からKadaram英語版に侵攻した。

マレーシアクダ州やタイのサトゥーン県と文化的に深い繋がりを持っている。クダ王国は親タイであったため、当時隣接していたパタニ王国の後継であるタイ深南部パッターニー県ヤラー県ナラーティワート県)の独立運動には関わらないことが多い。

タイのアユタヤ王朝(1351年 - 1767年)時代、ビルマ軍がタイに侵攻する際は、ビルマ軍の拠点であった。アユタヤ王朝時代の末期である1751年にダウェイが港として建設された。

アユタヤ王朝時代の後、シャムとビルマが交互に支配し続けた。

1826年2月、第一次英ビルマ戦争英語版の結果、イギリスとビルマ間で締結されたヤンダボ条約英語版によってイギリスの植民地時代を迎えた。 同年6月20日、イギリスとシャムが境界画定条約英語版を締結(1868年に別の条約が締結された)し、国境が確定した。英領ビルマ首都はタニンダーリ(現在のモン州を含んでいた)のモーラミャインに定められた。 1826年後半、イギリスとシャムがバーニー条約英語版を締結し、クダ王国のクダ州やサトゥーン県がイギリスマラッカ海峡植民地となった為、クダ王国以来の歴史的な文化的繋がりが途絶えた。

この期間、イギリスは植民地運営の為にカレン族を雇い入れた。

1852年第二次英ビルマ戦争英語版の結果、イギリスが下ビルマ全域を制圧して首都がラングーンへ移されると、南東ビルマのタニンダーリ地方は現在のモン州カレン州バゴー管区タウングー郡英語版を含むようになり、モーラミャインがタニンダーリ地方の区都になった。

イギリスは、タニンダーリからカレン族を連れて下ビルマの植民地運営に乗り出した。この時の支配関係、すなわち支配者側のカレン族と、被支配者側のビルマ族という構図が、今日のミャンマーにおける民族間対立の原因となった。

ダウェイ近郊のマウンマガン村にビーチがあり、植民地時代にはイギリス人の避暑地となっていた。同地は現在もミャンマー内で人気リゾート地として観光業が盛んである。

第二次世界大戦中、交通の要衝として目をつけた日本軍によって泰緬鉄道が建設された。

1948年、ビルマ独立に際して、タニンダーリ地方の東北部が新たにカレン州として置かれた。1974年、残りのタニンダーリ地方の北部がモン州として置かれ、モーラミャインはモン州に移った為、タニンダーリの新しい区都としてダウェイが選ばれた。

行政区画[編集]

タニンダーリ管区は、3地区に広がる10郷から構成されている。

交通[編集]

関連項目[編集]