タキン・タン・トゥン
タン・トゥン သန်းထွန်း | |
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生年月日 | 1911年 |
出生地 | イギリス領ビルマ、タウングー県、カニュックイン |
没年月日 | 1968年9月24日(56〜57歳没) |
死没地 | ビルマ連邦 |
出身校 | 教育大学附属実習校 |
所属政党 | ビルマ共産党 |
配偶者 | キン・チー |
親族 |
フォー・マウン(父) アウンサン(義兄) アウンサンスーチー(姪) |
ビルマ国農務大臣 | |
内閣 | バー・モウ |
在任期間 | 1942年 - 1943年 |
国家代表 | バー・モウ |
タキン・タン・トゥン(ビルマ語: သခင်သန်းထွန်း, 1911年 - 1968年9月24日)は、ミャンマーの政治家。ビルマ国農務大臣を務めた。
経歴
[編集]1911年、イギリス領ビルマ、タウングー県、カニュックインにて誕生する。タン・トゥンはラングーンの教育大学附属実習校を卒業後、教師として働いている傍ら、マルクス主義の著作に影響を受けた。1936年、タン・トゥンはタキン党に入党、バー・モウの貧民党と合併して自由ブロックを形成、1937年にはタキン・ヌとナガニブッククラブを共同で設立し、マルクス主義書籍のビルマ語版を初めて広める。1940年にタキン・ヌ、タキン・ソー、バー・モウ、チョー・ニェインと共にイギリス軍によって投獄された。1941年7月、インセイン刑務所に収監されていたタン・トゥンは、タキン・ソーと共同で「インセイン宣言」を執筆[1]、1942年にバー・モウを国家代表とする親日政権であるビルマ国が建国されると、タン・トゥンは農務大臣を務め、アウンサンスーチーの母であるキンチーの妹キン・ギーと結婚した[2]。第二次世界大戦の終わり頃である1945年7月、ビルマ共産党は戦後を見据えてヤンゴンで第2回党大会を開催し、タン・トゥンは政治局局長となった。しかし、1946年2月から3月にかけて共産党内では分裂が進んでおり、タキン・ソーがタン・トゥンの追い落としを図った。しかし、その後タン・トゥンは権力の座に舞い戻り、タキン・ソーは分派集団として赤旗共産党を立ち上げた[3]。タン・トゥンは同年5月から反ファシスト人民自由連盟の書記長を務めていたが、同年11月、アウン・サンは義弟にあたるタン・トゥンを解任し、共産党員を同組織から追放した[4]。ウー・ヌの首相就任後の1948年、共産党指導部に対する逮捕命令が出され、タン・トゥンは武装蜂起を決定した。そして、共産党の拠点であるピンマナから中央ビルマにかけてゲリラ基地を築いた[5][6]。共産党議長となったタン・トゥンは、多くの党員を中華人民共和国に派遣、1967年には文化大革命を遂行、党内から修正主義者を追放したものの、共産党に加わった学生リーダー達が殺害されたことにより、共産党自体の印象は大きく打撃を受けた[7]。1968年9月24日、政府軍から逃亡していたタン・トゥンは、後にネ・ウィン政権に投降した部下によって暗殺された[8][9]。
脚注
[編集]- ^ Lintner 1990, p. 8.
- ^ “Junta Watch: Coup Leader's Wife Draws Public Ire; Suu Kyi's New Charge and More”. The Irrawaddy. (4 December 2021)
- ^ Lintner 1990, p. 10.
- ^ Lintner 1999, p. 80.
- ^ Lintner 1999, p. 86.
- ^ Lintner 1990, pp. 13–14.
- ^ Lintner 1990, pp. 21–22.
- ^ Lintner 1990, p. 28.
- ^ Lintner 1999, p. 254.
参考文献
[編集]- Lintner, Bertil (1990). The rise and fall of the Communist Party of Burma (CPB). Ithaca, NY: Southeast Asia Program, Cornell Univ. ISBN 9780877271239
- Lintner, Bertil (1999). Burma in Revolt: Opium and Insurgency since 1948. Chiang Mai: Silkworm. ISBN 9789747100785