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タキン党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タキン党(われらビルマ人連盟)
တို့ဗမာအစည်းအရုံး
略称 DAA
創立者 バタウン
スローガン ビルマは我々の国、ビルマ文学は我々の文学、ビルマ語は我々の言語
党歌 世界の果てまでビルマ
(တို့ဗမာ, Do Bama)
創立 1930年5月30日
後継政党 自由ブロック
本部所在地 ラングーン
政治的思想
党旗
タキン党旗[1]
ミャンマーの政治
ミャンマーの政党一覧
ミャンマーの選挙

タキン党(タキンとう)は、1930年に結成されたビルマ民族主義者の政治結社「われらビルマ人連盟」(ドバマ・アシアヨン、ビルマ語: တို့ဗမာအစည်းအရုံးDóbăma Ăsì-Ăyòun、DAA)の別称。

結成

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タキン・バタウン

結成

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「われらビルマ人連盟」(以下、タキン党)は、1930年5月30日、同年5月ヤンゴンで起きた反インド人暴動を機に、当時28歳でラングーン大学英語科翻訳助手だったタキン・バタウン(Thakin Ba Thaung)[注釈 1]とその仲間たちによって結成された。結成メンバー10人のうち、父親の職業が元王宮勤務、商人、弁護士、地主という者が6人いることからもわかるとおり、英植民地下のミャンマーで勃興したミャンマー人中間層の中から生まれた組織で、年齢的には、当時反英植民地運動の中心的存在だったてビルマ人団体総評議会英語版(GCBA)のメンバーよりも、5歳から15歳ほど若かった。彼らは対立と分裂を繰り返すGCBAに幻滅し、より団結力のあるナショナリスト団体を企図して、タキン党を結成した[注釈 2][2][3][4]

特徴

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「タキン」の使用

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彼らは名前の前に「タキン」(ビルマ語: သခင်)という言葉を付けた。「タキン」とはミャンマー語で「主人」を意味し、ミャンマーを支配する「主人」はイギリス人ではなく、ミャンマー人だという思いが込められていた[5]。タキン党結成以前、マグウェ地方域マグウェ県英語版タウンドウィンジー郡区ウェッデー村ビルマ語版の僧侶ウー・サンディマ(U Sandima)が、村人たちに、自分たちの主人であるという意識と、人種としてのビルマ族の優越性を育む手段として、家の表札に「タキン」の称号を掲げるよう指示しており、この村を訪れて感銘を受けたバタウンが、アイデアを拝借したものである[6]

「バマー」の使用

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タキン党の正式名称は「ドバマー・アシアヨン」(ビルマ語: တို့ဗမာအစည်းအရုံး)で、「ドバマー」は、「われらビルマ人」という意味である。「ミャンマー」と「バマー」は両方ともビルマ族の呼称だが、前者は文語、後者は口語となる。ミャンマーでは正当の名称に自国名をつける場合、文語の「ミャンマー」を使用するのが一般的だったが、タキン党は「バマー」のほうが「ミャンマー」よりも力強く響くという理由のほか、「バマー」にビルマ族だけではなく、カレン族カチン族シャン族などの少数民族をも包括し、一体となって反英植民地運動を展開していきたいという思いが込められていた。ただし、後述するように彼らの思想・行動は「ビルマ族中心主義」と言えるもので、実践できたとは言い難い[5]

「われらビルマ人」[2]

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タキン党は「われらビルマ人」(ドバマー)と「彼らビルマ人」(トゥードバマ、ビルマ語: သူတို့ဗမာ)を区別した。「彼らビルマ人」とは、英植民地政府と協力するGCBA系政治家[注釈 3]のことで、タキン党は、交渉による自治領獲得ではなく、国民を動員することによって独立を獲得することを目標に掲げた[5]

活動

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啓蒙活動の時代(1930年 - 1935年)

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『国家改革文書』、『ドバマーの歌』、全ビルマ青年連盟(ABYL)

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ビルマの国は我らの国/ビルマ文学は我らの文学/ビルマ語は我らの言語/我らの国を愛せ/我らの文学を褒め称えよ/我らの言語を尊重せよ

タキン党が姿を現したのは、1930年ヤンゴンにおける反インド人暴動が一段落した1930年6月である。この際、タキン党は『国家改革文書第1号』という4枚表裏8ページのパンフレットを発行した。文章の内容は、ビルマ族の現状を憂い、経済成長、民族の団結強化、愛国心の向上を訴える民族主義的啓蒙文書だった。また、表紙にはのちにタキン党のスローガンとなる、上記のような6行のモットーが記されていた。同年8月には、『国家改革文書第2号』を、今度は36ページのブックレットの形で、1,500部発行。内容は第1号と似たり寄ったりだったが、初めて独立に言及し、科学知識の習得、教育改革、積極的労働、農法の近代化などミャンマーが停滞から脱する方法が具体的に挙げられていた[2]

ドバマーの歌

同年7月19日、ラングーン大学タトン校男子寮の読書クラブ[注釈 4]において、始めて『ドバマーの歌』が披露された。発案はバタウン、作詞作曲はYMBタキン・ティンビルマ語版英語版[注釈 5]、補作はタキン・フラボーとタキン・テインマウンで、当時のタキン党のメンバーを総結集して作り上げたものだった。この歌は1936年の第2回ドバマー会議において国歌と宣言された後、日本占領下のビルマ国の正式な国歌となり、独立後、若干の改変が加えられ、タイトルを『ガバ・マ・チェ』(ビルマ語: ကမ္ဘာမကျေ、「世界は尽きることなく」)と変えられて再び国歌となり、現在に至っている[7]。この『ドバマーの歌』は大好評を博し、サッカーの試合、パゴダでの祭りなど大勢の人々が集まる場所でさかんに歌われ、タキン党には全国から歌の演奏の依頼が殺到した。その際、タキン党のメンバーは、自分たちが歌うだけではなく、聴衆にも一緒に歌うように促し、歌詞の内容を説明し、啓蒙活動の一環として機能した。また、地方遠征で築いた人脈は、その後タキン党が地方支部を設立する際に大いに役立った[7]

同年9月には、シュエダゴン・パゴダに約5,000人の若者を集め、全ビルマ青年連盟(All Burma Youth League:ABYL)の設立が宣言された[8]。ABYLの目的は(1)イギリス製品のボイコット、(2) 国産品の支持と国内産業の振興、(3)青年の団結と進歩とされ、会場ではイギリス産の煙草が焚き火で燃やされた。具体的には、メンバーが週末に市内を巡回し、人々に煙草のボイコットと国産品の使用を奨励するような活動を行った。1933年にはタキン党と正式に合併し、タキン党の青年組織となった[9]

立法参事会議員補欠選挙、「コウミーン・コウチーン」

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1931年1月2日、些末な喧嘩をきっかけに今度はヤンゴンで反中暴動が発生、これを奇貨としてタキン党は「ドバマー・イェタッ」(ビルマ語: တို့ဗမာရဲတပ်、「われらビルマ人の勇敢な軍隊」)という準軍事組織を結成した[10]。しかし、1930年12月末から1931年半ばまでエーヤワディ・デルタ地帯を席巻したサヤー・サンの乱の際にタキン党は何もできず、一時人気を落とし、活動は停滞した。この際、名声をためたのはサヤー・サンの弁護を引き受けたバー・モウで、彼はこれを奇貨として立法参事会議員となり、その後の政治キャリアを築いた[11]

1933年1月21日には『ドバマー・ニュース・ウィークリー』(ビルマ語: တို့ဗမာသတင်းဇင်းမှတ်တမ်း)が発刊されたが、7月22日に早くも休刊となった。『ドバマー・ニュース・ウィークリー』は1部2アンナ(10ピア)で販売されたが、当時のミャンマー人の平均的な年間所得は70チャットだったので、あまりにも高額で、廉価で販売するにはタキン党は資金が不足していた。7月4日から6日にかけて、バハン郡区にあったタキン党本部で再組織化に関する会議が開かれたが、出席者はわずか6人だった。しかし、この会議でシュウェボ地区の立法参事会議員補欠選挙に、バタウンが立候補することが決定された。シュウェボはコンバウン朝の始祖アラウンパヤーの故郷で、ビルマ族の団結と愛国心を訴えるにはうってつけの場所だった[12]

補欠選挙におけるタキン党の戦いぶりは、当選を度外視したもので、主に彼らの思想の宣伝・啓蒙に費やされた。選挙の争点だった英領インドからの分離問題については、道筋も示さずに独立を主張し、演説の前後には必ず小編成のオーケストラ付きで『ドバマーの歌』を演奏し、歌詞の内容を人々に説明した。そして、この際、「コウミーン・コウチーン」(ビルマ語: ကိုယ်မင်း ကိုယ်ခြင်း、「わが王、わが種族」)という言葉が初めて使用された。ただ、この際は言葉の定義は明確にはされず、英植民地当局が嫌った「独立」という言葉に代わるものとして、使用されたようである。結局、選挙運動の目新しさから演説会に人は集まったが、投票の結果、バタウンはわずか310票、得票率2.2%で最下位となり落選した。しかも翌1934年、党の方針をめぐって他の党幹部と対立したバタウンは、党創設者でありながら、タキン党を離党し、その後は民族派の作家・批評家としての人生を送った[2][13]

組織拡大の時代(1935年 - 1937年)

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コウミーン・コウチーン結社

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タキン・コウドオ・フマイン

1935年3月30日、当局の妨害を受けつつも、マグウェ地方域イェナンジャウン英語版で、第1回ドバマー会議が開催され40人ほどが参加。結党5年目にして初めて正式な中央執行部が発足し、タキン・バセインビルマ語版が議長に就任した。またこの際、のちにタキン党の思想面のリーダーとなり、名誉議長に就任する、詩人のタキン・コウドオ・フマイン英語版が入党した。その後、バセインと副議長タキン・レーマウンビルマ語版が訪印し、インドの民族主義者たちと関係を築いた[14]

1936年6月27日から29日にかけて、マンダレー地方域ミンジャウン英語版で、第2回ドバマー会議が開催され、今度は17地区から約200人の代表が参加。前述したように、この会議で『ドバマーの歌』が国歌と宣言され、同年11月に予定されていた、ビルマ統治法英語版により英領ビルマとなった最初の総選挙に、「憲法を破壊するために」参加することが決定された。大会最終日に幹部5人が当局に逮捕されたが、これにタキン党のみならず地元の若者たちも抗議運動に加わり、多数の若者がタキン党に入党した[15]

そして、同年7月19日、コウミーン・コウチーン結社ビルマ語版という政党を結成。その際策定された憲章で、「コウミーン・コウチーン」は以下のように定義された[注釈 6][13]

コウミーン・コウチーン思想とは、自分たちの国において、自分たちの傘、自分たちの宮殿、自分たちの国王とともに、堂々と壮麗に華やかにいつまでも住めることを望む思想である。
タキン・ミャ

憲章には結社の目的として、(1)新憲法体制を崩壊させること、(2)新憲法体制が無価値であること、貧しい人々になんら利益をもたらすものでないことを行動によって示す、(3)総選挙を利用して、ドバマーの思想を宣伝することが挙げられていた。そして、同年11月13日に実施された総選挙では、全28選挙区で約8万票を獲得し、3人の当選者を出した。そのうちの1人が、のちにアウンサンとともに暗殺された法律家のタキン・ミャ英語版である[13]。コウミーン・コウチーン結社の議員3人は、外国人統治に対する嫌悪を表明し、ビルマ提督が議会に入場する際にも、他の議員が全員起立して挨拶したのにもかかわらず、着席したままで、他の議員が国王への忠誠を誓うために起立した際にも、彼らは着席したままだった。また、ビルマ統治法第30条により、議会におけるすべての議事は、議員がミャンマー語に十分精通していない場合を除いて、英語で行われることになっていたが、ミャは自身が英語に堪能であったのにもかかわらず、ミャンマー語で発言し、議長に注意されると、議場を退席した[16]

われらのビルマ思想

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1937年2月2日、全15項からなる「われらのビルマ思想」(ビルマ語: တို့ဗမာဝါဒ)と銘打たれたタキン党の憲章が策定された。憲章は、第1項で「われらビルマ人」を「国内に住む貧困層」「ビルマ族の血を引く者」「ビルマの繁栄を本憲章に従って追求する者」と定義し、第2項で「タキン」を「人間の平等な権利の獲得や生活水準の向上に努力する者」と定義し、第3項でタキンが擁護する者として、「労働者」「農民」「貧困層」を列挙し、その後、徹底した資本主義・帝国主義批判をするなど、当時ラングーン大学の学生・卒業生などのインテリの入党が増加していたことを反映して、彼らが被れていた共産主義・社会主義思想の影響が色濃く表れていた[13]

同時に第8項では、党の基本思想として前述の6行のモットーがそのまま登場し、第9項では従来のビルマ族中心主義と社会主義思想を「コウミーン・コウチーン」という言葉で、融合させている。これは、アウンサン、ウー・ヌネ・ウィンなど元タキンのミャンマーの最高権力者が共通して抱いていた「社会主義ミャンマー」の原型とされる[13]

…コウミーン・コウチーンを作り上げるためには独立獲得が先決である。コウミーン・コウチーンを作るにあたっては…資本家による少数支配を打ち立てるではなく、多数派である貧しき者たちが支配する、「貧しき者たちの王・貧しき者たちの種族」だけからなるわれらビルマ人による、コウミーン・コウチーンの創設でなければならない。
表1.タキン党幹部
第1回(1935年) 第2回(1936年) 第3回(1938年)
議長 バセイン レーマウン テインマウン
副議長 レーマウン テインマウン フラボー
書記長 テインマウン[17] トゥンオウッ レーマウン
会計 トゥンキン トゥンキン バグワァン

憲章はさらに、加盟組織と中央執行委員会も定義した。加盟組織はコウミーン・コウチーン、バマー・レッヨウン・タッ(ビルマ語: ဗမာလက်ရုံးထပ်[18]、のちに、後述する1300年革命の際にヤンゴンまで行進してきた油田労働者・農民を組織して設立した全ビルマ労働者協会と全ビルマ農民協会が加わった。組織は、中央執行委員会を頂点とする、上意下達のピラミッド型民主集中制システムが採られ、右図からもわかるとおり、少数の幹部がポストを使い回して独占していた。また、党の資金源は、党会費、寄付金、出版物からの利益などだったが、実態は不明だった[19]

表2.タキン党地方支部形成状況[2]
上ビルマ(全18県) 下ビルマ(全22県) 全ビルマ(40県)
1936年 4県・1地区 8県 12県・1地区
1937年 8県 13県 21県
1939年 13県 14県 27県

組織拡充については、前述したように1936年のラングーン大学第二次学生ストライキをタキン党が全面支援したのを機に、アウンサンウー・ヌなどのラングーン大学の学生・卒業生の入党が増加し、地方支部も増加していたものの、この時期は農民や労働者の動員はまだ不十分だった。

分裂、そして消滅(1938年 - 1942年)

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党分裂

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1938年1月8日、バーマ・オイル(BOC)が、ミャンマーの伝統的な祭りの日を休日から外したのを機に、マグウェ地方域チャウッ英語版の油田労働者がストライキを起こした(1300年革命)。タキン党は、これを宗教問題と喧伝して、手薄だった労働者の動員を目論み、積極的に支援し、「コウミーン・コウチーン」を広め、各地に地方支部を設立していった[20][21]。しかしその裏で、ストライキ参加者の約40%がインド系ビルマ人で、タキン党にも多くのインド系党員がいたのにもかかわらず、古参党員がビルマ族中心主義に固執する一方で、若手党員は、ビルマ族、インド人といった人種の垣根を超えた階級闘争を主張し、両者の間で亀裂が生じていた[21]

その亀裂は、同年3月22日から24日にかけて、プローム(現ピイ)で開催された第3回ドバマー会議で顕になった。憲章の規定により、会議前に新議長に選出されていたタキン・トゥンオウッビルマ語版が逮捕されたため、タキン・テインマウンが新議長に選出された。トゥンオウッはプローム地主の息子の古参党員だったが、テインマウンはラングーン大学出身で、イギリス留学経験もあるインテリで、自らを「ヒトラー」と称するような人物だった[22][23]。また、タキン党の党旗である黄・緑・赤の横縞の三色旗の真ん中にハンマーと円形鎌を入れることも決定されたが[注釈 7]、これも若手党員が被れていた共産主義・社会主義思想の現れであり、古参党員は面白くなかった[24]

そして、同年6月13日、テインマウンが、トゥンオウッに近いバセインとタキン・チョーインを解任、タキン党本部への出入りも禁止した。コウドウ・フマインが仲介を試み、7月3日、シュエダゴン・パゴダでテインマウン派とトゥンオウッ/バセイン派が顔を揃えて会合が開かれた。結果、コウドウ・フマインに全権を一任しテインマウンもトゥンオウッも排除した新執行部を発足させたが、結局、対立の火種は消えず、タキン党はテインマウン派とトゥンオウッ/バセイン派に分裂した。コウドウ・フマイン、アウンサン、ウー・ヌら有力な党員がテインマウン派に入ったので、「本部派」と呼ばれることもある[25]

本部派は、コウドウ・フマインが引き続き名誉議長に就任し、議長には当初テインマウンが就任したが、すぐにタキン・テイッ・ティン・コウドウ・ジーというコンバウン朝の末裔に交代した。しかし、これは名誉職で、実質、副議長のタキン・フラボーがナンバー1で、書記長のアウンサンがナンバー2だった。ウー・ヌは情報宣伝担当に就任した[26]

党消滅

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アウンサン

1939年9月、戦略の立て直しを図るためにタキン党は、全ビルマ学生組合連合英語版(ABFSU)と、反英に転じたバー・モウの貧民党と組んで、自由ブロックという同盟を結成した。しかし、バーモウの後を継いだウー・プビルマ語版内閣はビルマ防衛法を適用して、自由ブロック関係者を大量逮捕し、運動は挫折した[27]

幾多の挫折を経て、この頃からタキン党は武装闘争を画策し始め、兵器の供給先候補として中国国民党中国共産党インド国民会議が挙がった。そして1940年8月、逮捕状が出て潜伏していたアウンサンとタキン・フラミャインを中国共産党に接触すべく、中国人苦力に変装させて、中国船ハイリー号(海利号)でミャンマーを脱出させた[28]。一方、トゥンオウッとバセインもヤンゴンで日本軍関係者との接触を試み、同年6月10日、歯科医に扮装してミャンマーで諜報活動を行っていた元海軍大尉国分正三と会談し、イギリスと戦うために準備している旨を伝えたが、8月に国分が国外追放となったことによりこの計画は頓挫した[23]

アウンサンは中国共産党との接触には失敗したが、代わりに同じくミャンマーで諜報活動を行っていた鈴木敬司大佐と東京で会談し、タキン党が日本軍のミャンマー侵攻に協力する代わりに、日本がビルマの独立を約束することで合意した。そして、アウンサンは再び中国人に変装して海路でミャンマーに戻って同志を募り、自由ブロックを構成するタキン党本部派、ABFSUのみならず、時間的余裕がなかったので、対立関係にあったトゥンオウッ/バセイン派からも人選し、のちに「30人の同志」と呼ばれる30人の青年(本部派15人、トゥンオウッ/バセイン派9人[注釈 8])をミャンマーから脱出させた。そして、海南島で軍事訓練を始めたが、この際、トゥンオウッ/バセイン派のアウンタンが、「アウンサンは共産主義者だ」と日本人将校に吹き込んだことで、鈴木の不興を買い、一旦、東京に戻されるという一幕があった[23]。その後1941年12月28日、バンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)が結成され、1942年1月3日より日本軍第15軍とともにミャンマーに侵攻してイギリス軍を放逐し、3月にはヤンゴンを占領した[29]

その後、第15軍とBIAが「北伐」と呼ばれるミャンマー中央部の英印軍掃討作戦に従事している間、トゥンオウッを首班とする「バホウ(ビルマ語: ဗဟို、「中央」)政府という臨時行政府が設立された。しかし、一部BIAまたは自称BIAのモラルは非常に低く[30]エーヤワディ地方域ミャウンミャではビルマ族のBIAが、カレン族の元英植民地軍兵士から銃を没収しようとして、両者の間で衝突が発生し、推計5000人の死者と1万8000人の避難民の発生する事件が起きた(ミャウンミャ事件[31]。結局、6月4日に日本軍が軍政を布告したと同時に、バホウ政府は解散させられた[32]

日本占領後の体制については諸案あったが、結局、バー・モウを首班とする政権が樹立されることになり、これに反発して王政復古を主張したトゥンオウッ/バセイン派はバー・モウに疎んじられ、1943年8月1日にビルマ国が樹立されると、トゥンオウッとバセインの2人はシンガポールへ出奔した[23]。一方、本部派はバー・モウに協力的で、バーモウ内閣には、定員16人のうち本部派からはアウンサン、ウー・ヌら6人が入閣した。ただし、国家代表の諮問機関である枢密院には定員20人のうち1人、中央官庁における次官・局長には定員117人中4人、地方行政における知事等の要職には0人、主要委員会の委員には定員75人中7人と、必ずしも本部派のメンバーが重用されたわけではなかった[33]

その前年、日本軍はタキン党と貧民党を合併させてドバマー・スィンイェーダ協会という翼賛政党を設立した。これにてタキン党は政治組織としては消滅し、その歴史に幕を閉じることとなった[2]

再結成

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1945年5月から6月にかけて、イギリス軍と反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が日本軍を放逐した後は、ミャンマー側のリーダーとしてアウンサンが台頭した。トゥンオウッとバセインも帰国してタキン党を再結成したが、これは元の組織とは別物とされる。一時期、彼らはAFPFLに所属したがすぐに脱退。当初、アウンサン、AFPFLと折り合いが悪かったレジナルド・ドーマン=スミス英語版に重用され、彼が設立した行政参事会にこの新タキン党からトゥンオウッら2人が起用され、トゥンオウッは1942年2月にアウンサンがムスリムの村長を殺害した件を持ち出して、アウンサンの逮捕を画策したが、結局、失敗した。その後、ドーマン=スミスの後任ヒューバート・ランス英語版が設立した行政参事会にもバセインが起用されたが、AFPFLが主導権を握る中ではほとんど発言力はなく、1947年1月、ロンドンでイギリスとの独立交渉に臨むために結成された行政参事会代表団にバセインも選ばれたが、アウンサン=アトリー協定への署名を拒否し、帰国後、行政参事会を辞任した。1947年4月に実施された制憲議会選挙英語版も新タキン党はボイコット、同年7月19日にアウンサンが暗殺された際は、バセインも逮捕されたが、嫌疑不十分で釈放された。この後、新タキン党がミャンマーの歴史に登場することは二度となかった[34]

タキン史観

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独立後、ミャンマーの実権を握ったのは、アウンサン、ウー・ヌ、ネ・ウィンといずれもタキン党のメンバーで、ビルマ共産党(CPB)などの反政府勢力の指導者層にも元党員が多かった。彼らはタキン党およびアウンサンを神格化し、彼らこそ正史であり、そこから外れる者は傍流に追いやられた。例えば、英領ビルマとビルマ国で首相を務めたバー・モウは、現在ではミャンマーの歴史からは完全に忘れ去られ、アウンサンを暗殺したウー・ソオは極悪人扱いである。1988年から2021年ミャンマークーデターまで、国内外で大きな影響力を持ったアウンサンスーチーが、父アウンサンの後継者を自任していたことも、その傾向に拍車をかけた。ミャンマー研究者の池田一人は、このタキン史観のせいで、正当な歴史的評価を得ていない人物・事象が多数あると主張している[35]

著名な党員

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脚注

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注釈

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  1. ^ ビルマ仏教徒青年会英語版(YMBA)の3人の代表の1人、ウ ー・トゥンシェイン(U Tun Shein)の弟子だった。1920年のラングーン大学第一次学生ストライキに参加した後、大学を退学し、マンダレーシュウェボ民族学校の教師を勤めた後、ミャンマー研究の第一人者J・S・ファーニヴァル英語版が設立したビルマ図書クラブが発行する月刊誌『ガンタローカ(ビルマ語: ဂန္တလုက、「書の世界」)』の編集委員となった。1929年からはその英語力を買われ、ラングーン大学英語科翻訳助手となったが、民族主義的思想を学生に吹き込んだために、学長のD.J.スロスと対立し、辞職した。しかし、大学勤務中に手がけたV.A.ルヌーフ英語版の『一般史概説』の翻訳により、大学からウェールズ皇太子翻訳賞を授与され、賞金100ルピーを獲得。その金を元にタキン党を結成した。
  2. ^ 当初は、既存政党が国に及ぼす悲惨な影響を描いた政治劇を上演することで世間の注目を集めようとしたが、数ヶ月のリハーサルの後、劇は失敗に終わった。
  3. ^ 代表格が英領ビルマ政府で首相を務めたバー・モウウー・ソオである。
  4. ^ ウー・ヌが企画者の1人だったが、この時はまだタキン党のメンバーではなかった。
  5. ^ YMBというのは、彼がマンダレーに作った私立大学と音楽団の名前に由来し、この席でも彼が歌った。
  6. ^ 「傘」とは「白い傘」のことで、王朝時代、王の5つの標章の1つだった。
  7. ^ 黄色は金色の衣で、仏教を信仰する人々を表している。緑色は国家の経済を支える水田と森の色で、赤は国の救世主であり守護者となるべき土地の息子たちの勇敢な精神を表す。そして中央の白い円は心の清らかさを、槌は労働者を、鎌は農民を表していた。
  8. ^ ネ・ウィンのこの1人である。

出典

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  1. ^ Khin Yi (1988) The Dobama Movement in Burma (1930–1938), SEAP, p39
  2. ^ a b c d e f 根本, 敬 (1990). “1930年代ビルマ・ナショナリズムにおける社会主義受容の特質”. 東南アジア研究 27 (4): 427–447. doi:10.20495/tak.27.4_427. https://www.jstage.jst.go.jp/article/tak/27/4/27_KJ00000131547/_article/-char/ja/. 
  3. ^ 根本 2010, pp. 37–38.
  4. ^ 根本 1996, p. 43.
  5. ^ a b c 根本 2010, pp. 39–43.
  6. ^ Khinyi 1988, p. 3.
  7. ^ a b Khinyi 1988, pp. 6–10.
  8. ^ ウー・ヌが書記に就任している。
  9. ^ Khinyi 1988, p. 13,16.
  10. ^ The Day Anti-Chinese Rioting Erupted in British-Ruled Yangon” (英語). The Irrawaddy. 2025年11月12日閲覧。
  11. ^ Khinyi 1988, pp. 13–14.
  12. ^ Khinyi 1988, pp. 18–20.
  13. ^ a b c d e 根本 1996, pp. 48–56.
  14. ^ Khinyi 1988, pp. 26–33.
  15. ^ Khinyi 1988, pp. 34–37.
  16. ^ Khinyi 1988, pp. 38–42.
  17. ^ “သခင်သိန်းမောင်ကြီး၊ ရေရှည်ဒီမိုကရေစီနိုင်ငံရေးသမား” (ビルマ語). BBC News မြန်မာ. https://www.bbc.com/burmese/in-depth-62001356 2025年11月13日閲覧。 
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参考文献

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