グエン・ズー

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Flag of Vietnam.svg この人物の名前はベトナム人の命名慣習(姓・ミドルネーム・名)に従っており、呼称はではなく、を用います。
グエン・ズー
Tượng đài cụ Nguyễn Du.jpg
各種表記
クォック・グー Nguyễn Du
漢字チュノム 阮攸
北部発音: グエン・ズー
音読み げん しゅう[1]
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グエン・ズーベトナム語Nguyễn Du阮攸景興26年11月23日1765年1月3日) - 明命元年8月10日[2]1820年9月16日)はグエン朝ベトナム初期の詩人政治家の小説『金雲翹』をチュノムに翻案し、『チュエン・キエウベトナム語Truyện Kiều傳翹)』を著した。

名前[編集]

はトー・ニュー(ベトナム語Tố Như素如)。雅名としてタイン・ヒエン(ベトナム語Thanh Hiên清軒)を称した[2]

生涯[編集]

現在のハティン省ギースアン県ティエンディエン社ベトナム語版[2][3]に、レ朝の大司徒であったグエン・ギエム中国語版の七男として生まれる[3][4]。この頃のレ朝帝室は実権を失い、北部は帝室を牛耳るトンキンチン氏が、南部は半独立状態のクアンナムグエン氏がそれぞれ支配し、更に南部ではタイソン朝が興るなど、世は大いに乱れていた。父ギエムはレ・ヒエン・トン中国語版の治世に戸部尚書中国語版として仕え[5]、兄のグエン・カンベトナム語版[3]グエン・デベトナム語版など兄弟の多くも要職に就き、ズー自身も19歳で科挙に通り武官となっていた[4]。しかし景興47年(1786年)にタイソン朝のグエン・フエが都のタンロンを攻略するとチン氏当主のチン・カイは敗走し、その3年後にレ朝も滅びた。

ズーは代々レ朝に使えた一族の末として一時は復興運動に関わるが、それが叶わぬと知ると、ホンリンで自然に親しむ隠遁生活を送るようになった[2]。タイソン朝が滅びてグエン朝が起こるとザーロン帝に召し出され[3]、不本意ながらもフースアンの宮廷に仕えるようになる[2]。ザーロン帝はズーを重用し、「皇帝の柱」とまで呼ばれるようになったズーは東閣学士に任じられ[3]嘉隆3年(1804年)には清からの使者を国境で迎える役を務め[2]、嘉隆12年(1813年)には正使として北京に派遣された[4]。この時に『金雲翹』に接し、これを『チュエン・キウ』に翻案した[† 1]。ザーロン帝が崩御すると、後を継いだミンマン帝により三度目の対清正使に任じられる[3]が、その直後に重い病にかかり、明命元年(1820年)に没した。

作品[編集]

『チュエン・キエウ』の他、漢詩選3篇、短編詩「若い帽子屋の言葉」、クオック・グー詩の「降霊」がある[2]

脚注[編集]

  1. ^ 小倉は「1813年に北京に派遣、その後に金雲翹を著す」としているが、佐藤・黒田の書籍では、「1813年に金雲翹を著す」となっている。ここでは小倉説を採った。

出典[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 阮 攸 - 株式会社大学書林”. 大学書林. 2017年11月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 佐藤・黒田、pp.223-225
  3. ^ a b c d e f 大南正編列伝初集』巻二十 諸臣列伝十七 阮攸
  4. ^ a b c 小倉、pp.219-221
  5. ^ 大越史記全書』続編巻之五 黎紀 顕宗永皇帝

参考書籍[編集]

  • 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』〈中公新書〉。ISBN 4-12-101372-7
  • グエン・ズー『トゥイ・キォウの物語』レ・スァン・トゥイ、佐藤清二、黒田佳子訳、吉備人出版。ISBN 4-86-069-089-3 ※参考部分は越英訳者のレ・スァン・トゥイによる文章の重訳。