オクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤ (軽巡洋艦)

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モロトフスク
オクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤ
オクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤ
1970年発行のソ連の10コペイカ記念切手
「巡洋艦『オクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤ』」
艦歴
モロトフスク
Молотовск
起工 1952年7月15日 第402造船工場
進水 1954年5月25日
竣工 1954年12月18日
所属 ソ連海軍北方艦隊
オクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤ
Октябрьская Революция
改称 1957年8月3日
所属 ソ連海軍北方艦隊
転属 1960年12月16日
所属 ソ連海軍バルト艦隊
退役 1987年9月16日
除籍 1988年2月11日
解体 1988年 - 1990年
要目[1]
艦種 軽巡洋艦
艦型 68-bis号計画型から68-A号計画型へ改修
工場番号 301
排水量 満載排水量 16450 t
基準排水量 13350 t
全長 210 m / 205 m(水線長)
全幅 22 m / 21.2 m(水線長)
喫水 6.88 m / 6.88 m(水線長)
機関 TV-7蒸気タービン機関 2 基
KV68型重油専焼 6 基
出力 118000 hp
86800 kWt
スクリュー(直径4.58 m) 2 基
電源 タービン発電機 5 基
供給電力 86800 kWt
速力 32.5 kn
航続距離 9000 nm/16 kn(巡航速度)
8700 nm/18 kn
乗員 士官 72 名
水兵 1203 名
武装 152 mm3連装MK-5-bis 4 基
100 mm連装高角砲SM-5-1bis 6 基
37 mm連装機関砲V-11M 16 基
30 mm高角機関砲複合AK-230 8 基
533 mm5連装魚雷発射管PTA-53-68-bis 2 基
1908年式機雷 132 個[2]
1926年式機雷 76 個[2]
「クラープ」型機雷 68 個[2]
指揮機 戦闘情報管制装置「プランシェート」
電探 汎用捜索電探「キーリ」 1 基
水上捜索電探「リーフ」 1 基
ソナー 「タミール5N」
電子戦 電子戦対抗装置「クラープ」
射撃管制装置 「ザールプ」(主砲用) 2 基
「ヤーコリ」(両用、SPN-500に含まれる) 2 基
MR-104「ルィーシ」(AK-230用) 4 基
「ザリャー」(魚雷発射管用) 1 基
測距儀 KDP2-8-III(主砲用) 2 基
SPN-500(両用) 2 基
通信機 「ツナミ」
IFF レーダー識別装置「ファーケルMO / MZ」
装甲 舷側 100 mm
甲板 50 mm
砲塔 175 mm
司令塔 130 mm
脚注
  1. ^ 要目は68-A号計画のもの。
  2. ^ a b c 機雷は、1908年式、1926年式、「クラープ」のいずれかを搭載した際の最大積載数。

オクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤ(ロシア語:Октябрьская Революцияアクチャーブリスカヤ・リヴァリューツィヤ)は、ソ連で建造された軽巡洋艦(Лёгкий крейсер)である。ロシア語で「十月革命」という意味の艦名は、大祖国戦争中に活躍した戦艦から受け継がれた。

概要[編集]

1956年に撮られた「モロトフスク」時代の本艦

北方艦隊[編集]

オクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤは、68-bis号計画型軽巡洋艦の11番艦として計画された。当初の艦名は、モロトフスク(ロシア語:Молотовскモーラタフスク)であった。これは、本艦の建造されたセヴェロドヴィンスクの当時の名称である。1952年7月15日にこの町の第402造船工場で起工、翌1953年9月25日にはソ連海軍に編入された。1954年5月25日には進水12月18日に竣工、北方艦隊に配備された。

1956年8月3日から7日の間には、ノルウェーオスロを訪問した。その後、8月8日から12日にかけてはスウェーデンヨーテボリを訪問した。1957年に町の名前が改称されたのに伴い、巡洋艦モロトフスクも同年8月3日付けでオクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤと艦名を改められた。その後、同年8月30日から9月3日にかけてオスロを再訪問し、ヨーテボリへもまた1958年9月8日から12日にかけて再訪問した。

バルト艦隊[編集]

1960年12月16日には所属変えがあり、二重赤旗受賞バルト艦隊へ移籍した。1961年3月27日には戦列を離脱し、クロンシュタットにて保管状態に入れられた。しかしながら、1966年4月29日には戦列へ復帰した。1968年11月16日から1969年12月25日にかけては、クロンシュタットでオーバーホールを受けた。

1970年5月8日から13日の間は、フランスシェルブールを訪問した。翌1971年8月17日から22日にかけては、デンマークコペンハーゲンを訪問した。

中東戦争[編集]

1973年2月から1976年12月の間には、68-A号計画に従いセヴァストーポリの「セヴモルザヴォート」にて近代化改修を受けた。これにより、オクチャーブリスカヤ・レヴォリューツィヤには新しい高角機関砲コンプレックスAK-230と新しい電子装備が艤装された。

1970年代初頭には、中東戦争に関連する実戦任務に就いた。1970年7月17日から23日1972年9月25日から10月1日の間は、シリアに対する軍事支援任務を遂行した。1971年5月17日から6月25日7月5日から9日の間、および1972年9月8日から12日の間は、エジプトに対する軍事支援任務を遂行した。

晩年[編集]

1978年7月20日から24日にかけては、ポーランドグディニャを訪問した。1978年10月8日から10日の間は、ドイツ民主共和国ロストクを訪問した。1980年6月27日から30日にかけては、グディニャを再訪した。

1987年9月16日には、資金資産局への引渡しと解体・売却のため、海軍を退役した。1988年2月11日には除籍され、1988年から1990年にかけてレニングラート(現サンクトペテルブルク)の「グラフトルチェルメタ」基地で解体された。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]