饒宗頤
饒宗頤 | |
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プロフィール | |
出生: | 1917年 |
出身地: | 中国広東省潮州 |
職業: | 学者 |
各種表記 | |
繁体字: | 饒宗頤 |
簡体字: | 饶宗颐 |
拼音: | Ráo Zōngyí |
和名表記: | じょう そうい |
発音転記: | ラオ ゾンイー |
饒宗頤(じょう そうい)は、中華人民共和国の学者、詩人、書道家、画家。研究分野は、考古学、文学、言語学、儒学、仏教学、敦煌学、音楽、歴史など人文科学の多岐にわたる。中国研究の泰斗。「中国の国学大師」[1]「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」ともいわれる[2]。香港在住。香港中文大学の終身主任教授。中華人民共和国国務院の国家古籍整理委員会顧問。
経歴
父親の饒鍔は海法政学院に学んだ人で、潮州の新聞『粤南報』の編集長だった。
少年時代から学問の道を志し、18歳の時に著した論文『広東潮州旧志考』が専門家の目に止まり、歴史雑誌『禹貢半月刊』に掲載された。父親が早世したため、その研究成果など遺品を整理するために大学への進学を断念した。
19歳の時には中山大学から招請を受け、広東通志館で責任者となった。
1939年8月、中山大学から研究員にと招請を受けるも、香港経由で移動する際に病気になり、治癒した後も香港に留まる。
1940年、24歳で『楚辞地理考』を完成させる。1941年、香港への日本軍進攻のため、掲揚に疎開。
新中国の成立が宣言された1949年、『潮州志』を出版するために香港へ。そのまま移住することになった。
中国の無錫国専の教授のほか、香港大学、シンガポール大学など数々の大学で研究を重ね、香港中文大学の終身主任教授。同大学名誉教授。米国のエール大学、フランス国立社会科学高等研究院、フランスのソルボンヌ大学、日本の京都大学の客員教授などを歴任した。
2000年、文豪の金庸らとともに香港政府から「大紫荊勲章」を受章[3]。
フランス学士院の碑文・文芸アカデミーから、世界的に優れた東洋学者に贈られるジュリアン賞を受賞。
学術
80以上の著作、500編以上の学術論文がある。
英語、日本語、フランス語、ドイツ語、ヘブライ語、ヒンディー語、イラク語の6言語に通じている。
饒宗頤の業績を称えて、潮州市と香港に「饒宗頤学術館」が建てられている[4]。
日本との関係
初めて訪問した外国が日本(1954年)。そのこともあって、日本人の学者、著名人との交流も多い。書家の西川寧、青山杉雨、中国文学者の吉川幸次郎らとの交友が知られる。
2007年10月には神戸で「長流不息-饒宗頤展」が開催された(神戸新聞社など後援)。山水画や蓮華図など、墨画や仏画、書など約200点が展示された[5]。