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長崎事件

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長崎事件(ながさきじけん)とは、1886年明治19年)8月長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件。長崎清国水兵事件とも呼ぶ。

概要

1886年(明治19年)8月1日、清国海軍北洋艦隊のうち定遠鎮遠済遠威遠の四隻の軍艦長崎港に艦艇修理のためと称して入港した[1]

8月13日、500人からなる清国水兵が勝手に上陸を開始。遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、備品を壊したり暴行を働くなどのトラブルが起こり、長崎市内をのし回り、商店に押し入って金品を強奪。泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くす。長崎県警察部警察官が鎮圧に向かった。そして警察官と清国水兵が双方抜して市街戦に発展、斬り合いの結果、双方とも80数人の死傷者を出し、水兵は逮捕された。水兵は骨董店などで購入した日本刀を武器として用いた[2]。これを契機に不穏な空気が漲るようになった。

8月14日長崎県知事日下義雄と、清国領事館蔡軒の会談で、清国側は集団での水兵の上陸を禁止し、又上陸を許すときは監督士官を付き添わすことを協定した。

8月15日、前日の協定に反し、午後1時頃より300名の水兵が上陸。棍棒を持つ者もあり、また、刀剣を購入する者も少なくなかった。清国水兵数人が交番の前でわざと放尿し交番の巡査が注意すると、彼らはその巡査を袋叩きにした。300人の清国兵が3人の巡査によってたかって暴行し、1人が死亡した。これを見ていた人力車車夫が激昂し、清国水兵に殴りかかった。すると、清国水兵の一団が加勢し大乱闘となった。そして、止めに入った警察官と清国水兵がまたも斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出す(清国人士官1人死亡、3名負傷。清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。日本人住民も十数名が負傷)という大事件となった。

事件の影響

この事件は1884年(明治17年)の甲申政変と併せて日本国内の反清感情を大いに刺激し、後の日清戦争を引き起こす遠因の一つとなった。また、頭山満らにより結成された政治結社玄洋社が当初の民権論から国権論へと転向する契機ともなった。

事件後、清は日本側に無礼を謝罪せず、むしろ圧倒的な海軍力を背景に高圧的な態度に出た。当時、清は定遠を始めとする最新式の戦艦を保有しており、日本海軍はこれに敵わないと考えられており、またこの事件の2年前に発生した甲申政変でも日本は清に敗退しており、当時の日清の力関係は清が優位に立っていた。

清は日本政府に対して、日本の警察官が今後帯刀することを禁ずべしという要求を突き付け、これを飲ませることに成功した[3]。しかし、この事件によって日本国内では反清の機運が高まり、主に交渉によって清との摩擦を解消しようとしていた日本は、武力対決まで視野に入れるようになった。

脚注

  1. ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07090388600、帝国造船所二於テ外国船艦修理方請願雑件第3巻「清国軍艦長崎ニ来航修繕スル様李鴻章ヘ勧告ノ儀ニ付在天津領事ヨリ申出ノ件」(外務省外交史料館)。事件の翌年、1887年(明治20年)8月、波多賀承五郎天津領事井上馨外務大臣に問い合わせた「機密第六号」のなかにつぎの文言がある。「先年修繕ノ為メ長崎ニ軍艦ヲ発遣シタルニ不図モ意外ノ葛藤ヲ生シタルニ付再ヒ長崎ニ軍艦ヲ派スルコトハ支那官吏ノ決シテ為サザル所ニ有之」。
  2. ^ 伊藤博文文書 第34巻 秘書類纂 長崎港清艦水兵喧闘事件』所収、明治19年8月15日付・司法大臣山田顕義宛長崎控訴院検事長林誠一発「長崎事件第三報」(53~58頁)のうち、55頁に「携フ所ノ日本刀(此刀ハ古道具屋ヨリ買取所持シ居タルモノナラン)」とある。
  3. ^ 岡崎久彦「明治の外交力 陸奥宗光の蹇蹇録に学ぶ」海竜社、2011年

参考文献

  • 長崎県警察史編集委員会『長崎県警察史 上巻』長崎県警察本部、1976年
  • 伊藤博文文書 第34巻 秘書類纂 長崎港清艦水兵喧闘事件』伊藤博文文書研究会(監修)、檜山幸夫(総編集)、岩壁義光(編集・解題)、ゆまに書房2010年

関連文献

論文
書籍

関連項目

外部リンク