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金剛智

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Dharma Wheel
密教
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仏教
金剛乗仏教
時代・地域
初期 中期 後期
インド チベット 中国 日本
主な宗派(日本)
東密
※は、「真言宗各山会」加入
- 古義真言宗系 -
高野山真言宗
東寺真言宗
真言宗善通寺派
真言宗醍醐派
真言宗御室派
真言宗大覚寺派
真言宗泉涌寺派
真言宗山階派
信貴山真言宗
真言宗中山寺派
真言三宝宗
真言宗須磨寺派
真言宗東寺派
- 新義真言宗系 -
真言宗智山派
真言宗豊山派
新義真言宗
真言宗室生寺派
- 真言律 -
真言律宗
台密
〈日本〉天台宗
信仰対象
如来 菩薩 明王
経典
大日経 金剛頂経
蘇悉地経 理趣経
思想 基本教義
即身成仏 三密 入我我入
曼荼羅 護摩
東密
古義広沢流 小野流新義
関連人物
東密
金剛薩埵 龍樹
龍智 金剛智 不空 恵果
空海
真言律
叡尊 忍性 信空
台密
最澄 順暁 円仁 円珍
ウィキポータル 仏教

金剛智(こんごうち、skt:Vajrabodhi、669年 - 741年)は、音訳では跋日羅菩提といい、中国密教の祖師であり、開元三大士の一人である。主に『金剛頂経』系の密教を伝えた。真言八祖の中では、「付法の八祖」で第五祖、「伝持の八祖」では第三祖とする。

生涯

インド

金剛智は、南インドの摩頼耶国の人で、バラモン種の生まれである。10歲の時にナーランダ寺に入り出家した。寂静智の下で声明を学んだ。15歲の時に西インドに遊方し、4年間かけて法称論師の因明に関する著作を学び、ナーランダ寺に戻った。20歲の時に具足戒を受けた。

その後6年間、大乗小乗の各種の戒律を学び、『般若灯論』『百論』『十二門論』等の論書をも学習した。28歲の時、カピラ城に向かい、勝賢論師に就いて『瑜伽師地論』『唯識論』『弁中辺論』を学んだ。

3年を経て31歲の時、南インドに向かい、龍樹菩薩の弟子である龍智に就いて、7年の間師事し、龍智の下で『金剛頂瑜伽経』『毗盧遮那総持陀羅尼法門』等の密教の経典を学んだ。また、各種の五明の論書をも学び、並に五部灌頂を受けた。顕密の奥旨に達した金剛智は、師父である龍智の下を辞して、中インドに戻った。

その後、南インドが大旱魃に陥った時、その国王の求めに応じて、金剛智は再び南インドを訪れ請雨を行なった。その後、国王は金剛智のために寺院を建立した。3年後、金剛智はスリランカに向かい、仏跡を巡拝した。戻った後、東方に向かう準備を始めた。

中国

南インドの国王は使者を派遣して金剛智を護送させ、並に数多の経典や梵夾、数多の珍宝を携えさせた。海路よりスリランカ・ジャワ等、20余国を経て、艱難辛苦の果て、3年を経て、719年(開元7年)に、遂に広州に到達した。時の節度使は数百艘の船を派遣して出迎えた。

翌年(720年)の初め、東都洛陽に到達した。その後、両京で伝教につとめた。前後して大慈恩寺大薦福寺・資聖寺などの大寺で、或いは壇場を建立し、或いは経典を翻訳し、また、四衆を化導した。

741年(開元29年)、帰国を思い立ったが病いに倒れ、洛陽で没した。諡は大弘教三蔵。743年天宝2年)、西龍門に塔を建立した。

訳著

  • 『金剛頂瑜伽中略出念誦経』(即ち『瑜伽念誦法』)4卷
  • 『七俱胝仏母准提大明陀羅尼経』(即ち『七俱胝陀羅尼』)1卷,
  • 『曼殊室利五字心陀羅尼』1卷
  • 『観自在瑜伽法要』1卷
  • 『金剛頂経瑜伽修習毗盧遮那三摩地法』1卷
  • 『千手千眼観世音菩薩大身咒本』1卷
  • 『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心』1卷
  • 『陀羅尼咒本』1卷
  • 『不動使者陀羅尼秘密法』1卷

法嗣

関連項目

参考文献

  • 「東京大広福寺故金剛三蔵塔銘序」
  • 貞元新定釈教目録』巻14
  • 宋高僧伝』巻1
  • 岡崎密乗「金剛智三蔵伝記考」(『密宗学報』9,11)
  • 塚本俊孝「中国に於ける密教受容について:伝入期たる善無畏・金剛智・不空の時代」(『仏教文化研究』2、1952年)
  • 加藤精一「金剛智訳経典の仏身観」(『密教学』13,14、1977年)
  • 岩崎日出男「杜鴻漸撰述『金剛智三蔵和尚記』の逸文について」(『アジア文化の思想と儀礼:福井文雅博士古稀記念論集』、2005年)