谷口千吉
たにぐち せんきち 谷口 千吉 | |
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生年月日 | 1912年2月19日 |
没年月日 | 2007年10月29日(95歳没) |
出生地 | 東京都 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
職業 | 映画監督 |
配偶者 | 八千草薫(1957年 - ) |
谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年2月19日 - 2007年10月29日)は、日本の映画監督。妻は女優の八千草薫。
来歴
東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部英文科在学中は、千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて中退。1933年に助監督としてPCL(東宝の前身)に入社する。ともに山本嘉次郎の助監督についていた黒澤明、本多猪四郎は親友である。
1947年、山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。これは三船敏郎の俳優デビュー作でもあり、山男の谷口が北アルプスでロケをしたことで、『キネマ旬報』ベスト・テン7位を獲得するなど高い評価を受けている。この作品にサード助監督として付いた岡本喜八は、以降多くの谷口作品に助監督として付く事となった。
「芸術の黒澤、娯楽の谷口」と謳われて、東宝ではアクション路線を担当した。谷口本人があまり積極的に映画製作を行わなかった事や、私生活での問題などもあり、1950年代後半には会社から3年近く干された事もあった。1960年代にはB級アクション映画や喜劇映画が回ってくるようになり、監督本数は減少した。1970年の日本万国博公式記録映画の総監督を経て、1975年の『アサンテ サーナ』を最後に監督作品はなく、最後まで表立った活動は見られなかった。
人物
私生活では3度の結婚を経験。脚本家の水木洋子(初婚)と女優の若山セツ子(再婚)とはいずれも破局。
1957年に3度目の妻として『乱菊物語』で共に仕事をした八千草を迎え2007年の死去まで連れ添った。68歳のときに自動車の運転免許を取得し、85歳まで八千草の送り迎えをするなど夫婦仲は円満であったという。八千草との間に子供はなく、晩年(90歳ごろより)日常生活に車椅子が必要な状態であった(谷口死去時の八千草の談話)というが二人の夫婦の絆は最後まで変わらなかった。
大学時代から登山に熱中し、日本山岳会会員でもあった。山歩きを趣味とした八千草ともども夫婦でたびたび登山を楽しんでいたという。
主な監督作品
- 東宝ショウボート(1946年)
- 銀嶺の果て(1947年)
- ジャコ万と鉄(1949年)
- 暁の脱走(1950年)
- 魔の黄金(1950年)
- 愛と憎しみの彼方へ(1951年)
- 誰が私を裁くのか(1951年)
- 死の断崖(1951年)
- 霧笛(1952年)
- 激流(1952年)
- 吹けよ春風(1953年)
- 赤線基地(1953年)
- 潮騒(1954年)
- 裸足の青春(1956年)
- 乱菊物語(1956年)
- 嵐の中の男(1957年)
- 国定忠治(1960年)
- 男対男(1960年)
- 紅の海(1961年)
- 紅の空(1962年)
- やま猫作戦(1962年)
- 大盗賊(1963年)
- 独立機関銃隊未だ射撃中(1963年)
- 馬鹿と鋏(1965年)
- 国際秘密警察シリーズ
- 国際秘密警察 鍵の鍵(1965年)
- 国際秘密警察 絶体絶命(1967年)
- 奇巌城の冒険(1966年)
- カモとねぎ(1968年)
- 公式長編記録映画 日本万国博(1971年)
- アサンテ サーナ(1975年 自主上映)