藤原田麻呂

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藤原 田麻呂(ふじわら の たまろ、養老6年(722年) - 延暦2年3月19日783年4月25日))は、奈良時代公卿藤原式家の祖である参議藤原宇合の五男[1]。母は小治田功麿男牛養女。官位従二位右大臣[1][2]正二位。号は蜷淵大臣

経歴

天平12年(740年)長兄が起こした藤原広嗣の乱連座して隠岐国配流。天平14年(742年)罪を赦されて帰京するが、政治とは関わることなく、蜷淵(現在の奈良県高市郡明日香村稲淵)の山中に隠棲する。仏教への信仰心が厚く、修行に努めた[1]

天平宝字5年(761年従五位下次いで従五位上・南海道節度副使に叙任[3]され、天平宝字7年(763年美濃守次いで陸奥出羽按察使藤原仲麻呂政権下では主に地方官を務める。また、この間の天平宝字6年(762年石上宅嗣に替わって遣唐副使に任ぜられているが、結局渡海は中止となっている。

天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱ののち、称徳朝において右中弁外衛中/大将大宰大弐兵部卿と要職を歴任。天平神護2年(766年)には従四位上参議に叙任され、公卿に列した。

その後、称徳天皇崩御に伴う天智系の光仁天皇即位道鏡の失脚(宝亀元年(770年))や、皇太子他戸親王の廃太子事件(宝亀6年(775年))が発生するも、政争に巻き込まれることもなく、光仁朝末の宝亀11年(780年)に正三位中納言桓武天皇が即位した翌天応元年(781年)には、右大臣大中臣清麻呂大納言・石上宅嗣の死去に伴い、大納言近衛大将へと、順調に昇進する。

天応2年(782年左大臣藤原魚名の失脚に伴い、従二位右大臣として太政官の首班に立つが、翌延暦2年(783年)3月19日薨去享年62。最終官位は右大臣従二位兼近衛大将皇太子傳

人物

腰が低く謙虚で、人と争うようなことがなかったという[1]

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

子孫

藤原田麻呂の長男は田上二十七代と称され、正五位下に叙されている。よって、藤原田麻呂の子孫は“田上”という姓名になった。田上二十七代の子孫、藤原光教(田上光教)は、従四位下に叙され、讃岐守に任じられている。更にその子孫には一志郡八太村八大夫となった田上光久という人物もいる。

ゆかりの事物

福岡県春日市にある神社。大宰大弐であった神護景雲二年(768年)にその社殿を創建。

参考文献

  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社講談社学術文庫〉、1995年
  • 野村忠夫「藤原式家」『奈良朝の政治と藤原氏』吉川弘文館、1995年
  • 高島正人「奈良時代中後期の式・京両家」『奈良時代諸氏族の研究』吉川弘文館、1983年
  • 木本好信「藤原田麻呂」『藤原式家官人の考察』高科書店、1998年

脚注

  1. ^ a b c d 続日本紀』延暦2年3月19日条
  2. ^ 公卿補任』では左大臣とする。
  3. ^ 『続日本紀』天平宝字5年11月17日条。『公卿補任』では西海道節度使とする。
  4. ^ 『公卿補任』

関連項目

  • 田上嘉子:元女優。藤原田麻呂の末裔と称した。