藤原朝成
藤原 朝成(ふじわら の あさひら、延喜17年(917年) - 天延2年4月5日(974年3月6日))は、平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原定方の六男。官位は従三位・中納言。三条中納言と号す。
生涯
醍醐天皇の外叔父である定方の子として、天皇在位中に生まれた。そのため、延長8年(930年)に元服とともに従五位下に叙爵され、翌年には侍従に任官するなど、比較的順調に官途を開始した。ただ、醍醐天皇はこの叙爵の2ヶ月前に譲位し、崩御しており、また政界の主流である藤原北家を出自とするものの、当時の太政官の首班であった藤原忠平やその子らとは別系統であり、醍醐天皇の即位によって公卿となる家格を得た傍流であったことから、以降の昇進は必ずしも順調とは言えなかった。天慶元年(938年)にようやく左兵衛権佐に進み、天慶5年(842年)右少弁を経て、以降は近衛少・中将と遥任の地方官を兼官した。
天暦2年(948年)従四位下、天暦9年(955年)従四位上・蔵人頭に叙任され、天徳2年(958年)に参議として公卿となる。しかし、安和3年(970年)に権中納言に昇進するまで10年以上参議のまま留まり、この間には兄の中納言・朝忠を亡くしている。翌天禄2年(971年)に中納言に転じたものの、天延2年(974年)自身が比叡山西麓に創建した仏性院で薨去。享年58。最終官位は中納言従三位兼行皇太后宮大夫。
逸話
のちに摂政となる藤原伊尹と官職を争って敗れ、伊尹とその子孫に祟る怨霊となったとされる逸話が諸書にある。
- 一条摂政(伊尹)と参議任官を競って望んだ際[1]、朝成は伊尹を用いるべきでない理由をあれこれ述べていた。のちに、欠員が発生した大納言への任官希望を伝えようとして、朝成は一条摂政の邸宅に参上した。大臣(伊尹)はすぐには会わず、数時間後にようやく面会したところ、朝成は立って大納言に任ずるべき理由をひとつひとつ申し述べた。大臣はそれには答えず、「宮仕えの道とは、なんとも興味深い事よ。かつて同じ官職を競って望んだ際は、(私のことを)あれこれ言い立てられていたようだが、このたびの(朝成の)大納言への任官は私の心持ち次第なのだ」と言った。朝成は恥ずかしい思いを懐きつつ怒って退出し、牛車に乗る際に先ず笏を投げ入れたが、その笏は中央より破れ裂けていたという。その後、一条摂政が病気となり薨去したが、これは朝成の生霊が原因と噂された。こうした経緯により、一条摂政の子孫は朝成の旧宅に立ち入ることを避けたという。この邸宅は三条西洞院にありいわゆる『鬼殿』と呼ばれた。
- 朝成と一条摂政は同時代の殿上人で、朝成は家柄こそ一条殿と同等ではなかったが、学才も世間の信望もともに卓越した人物であった。この2人が蔵人頭の候補になった際に、朝成は伊尹に対して「殿(伊尹)は今回蔵人頭に任ぜられなくても、世間の人々から外聞が悪いなどと思われるはずがない。後からいつでも思うように任官が叶う身分である。しかしながら、私は今回任ぜられないと、大変惨めなことになってしまうため、このあたりを察して、任官の申請をしないでもらえないか」と依頼したところ、伊尹は同意して、申請しない旨を回答した。朝成は非常に嬉しいことと思っていたが、一条殿がどう心変わりしたのか、何の挨拶もなく蔵人頭に任ぜられてしまった。朝成は「こんな騙し方はないだろう」とひどく忌々しく思って、それ以来二人は仲違いの状態となってしまった。
- そのうちに、朝成が一条殿の家来などという者に対して無礼な仕打ちをしたことを一条殿が聞きつけて「たとえ気に入らないとしても思うだけならともかく、なぜ何かにつけて私たちをこのようにばかにするのか、怪しからぬことだ」と憤慨していると聞いて、朝成は弁解をするために一条殿の邸宅を訪れた。このような貴族の方々は自分より身分の高い人のところに参上した際には、「こちらへ」と言われるまでは御殿に上がらず、外に立っている決まりであった。この訪問はちょうど6-7月の非常に暑い盛りで、朝成は従者に取次をさせて中門に立って待っていたが、一向に御殿に上がるよう伝えられず、西日が照りつける中非常に暑い思いをした。そのうちに夜になってしまったため、朝成はやむなく自邸に立ち戻ろうとした際に、憤怒の思いで笏を強く握るとその拍子に笏が音を立てて折れてしまった。朝成は自邸に戻ると「一条殿の一族を永久に根絶やしにしてやる。息子も娘も満足に暮らさせない。これに同情する者があれば、同じように祟ってやろう」と誓って死去した。この憤怒が一条殿の子孫代々に祟る悪霊となったという。(『大鏡』[3])
『今昔物語集』の人物描写では、賢明で胆力があり、知識に優れ、また笙を吹くのがうまかったが、大食いで肥満体であった。本人も体重を気にして、医師を呼んで痩せる相談をしたところ、冬には湯漬け飯、夏は水漬け飯を食べることを勧められた。その後「実行しているのだが、効果がない」と言われた医師が屋敷に出向いて食事のようすを見ると、干瓜十本、鮨鮎三十尾をおかずに、大碗に山盛りにしててっぺんに少し水を垂らした飯が二度ほど箸を回しただけで消えてなくなり「代わりを盛れ」と給仕係に差し出していた。医師はあきれ返り、とてもやせるのは無理だろうと人に語った。医師に見放されてからはさらに体重が増え、相撲取りのような体つきであったという[4]。
系譜
『尊卑分脈』による。