藤原有国
藤原 有国(ふじわら の ありくに、天慶6年(943年) - 寛弘8年7月11日(1011年8月12日))は、平安時代中期の公卿。初名は在国。字は藤賢。藤原北家真夏流、大宰大弐・藤原輔道の四男。官位は従二位・参議。弼宰相と号す。
経歴
若い頃は受領であった父の輔道に従い地方を転々とするが、後に文章生となり菅原文時の門下となる。後に慶滋保胤・平惟仲・藤原惟成らとともに勧学会を組織した。康保4年(967年)に東宮雑色となり守平親王に仕え、即位(円融天皇)後も蔵人所雑色として引き続き仕える。天禄4年(973年)冷泉院判官代に遷るが、円融・冷泉両帝への仕官を通じて外戚の藤原兼家の知遇を得て、後にその家司となる。貞元2年(977年)に従五位下に叙爵すると、翌貞元3年(978年)石見守、永観2年(984年)越後守と地方官を歴任する。
寛和2年(986年)一条天皇が即位して兼家が摂政となると、在国も正五位下・左少弁兼五位蔵人に叙任されて京官に呼び戻され、翌永延元年(987年)右中弁、次いで平惟仲に同職を譲って左中弁に転じ従四位上に昇るなど急速に昇進を果たした。兼家が在国と惟仲を指して「左右のまなこ」と評したのはこの時期のことである。永祚元年(989年)には正四位下・右大弁に叙任され、勘解由長官を兼ねた。翌正暦元年(990年)5月に蔵人頭となる。
その頃、兼家は後継者について悩み、在国と惟仲を招いて意見を求めた。惟仲は長男の道隆を推挙したが、在国は先の寛和の変で花山天皇を退位させて、一条天皇の即位と兼家の摂政就任に貢献をしたのは次男の道兼であるとして道兼の擁立を勧めた。同年7月に兼家は道隆を後継者として選んで病没した[1]。この経緯を知った道隆は深く在国を恨み[2]、同年8月に在国を従三位に叙して、わずか在任3ヶ月で要職である蔵人頭を強引に退任させた。そして翌正暦2年(991年)に在国は大膳属・秦有時殺害容疑で除名処分を受けて官位を剥奪され朝廷を追われてしまった。翌年には本位の従三位に復すが、散位次いで勘解由長官のまま数年を過ごした。
長徳元年(995年)道隆・道兼が相次いで没した後に政権を握った藤原道長は、宋との交易拡大と西海道の再建政策実施のために、藤原佐理に替えて在国を大宰大弐に任じた。これ以後、在国は道長の家司として行動するようになる。当時の大宰帥・敦道親王は遥任であったために、大宰府における九州統治は在国に一任された。翌長徳2年(996年)道隆の嫡男の内大臣・藤原伊周が、花山法皇に矢を射掛けたとして大宰権帥に左遷された(長徳の変)が、在国はこれを厚遇して、後に道長の側近であるにも関わらず道隆の外孫である敦康親王の後見を務めるきっかけとなった。なおこの年には、正三位に叙せられるとともに、在国から有国に改名している。
長保3年(1001年)平惟仲の大宰権帥就任と入れ替わるように帰京して、従二位・参議に叙任され59歳にして議政官となる。寛弘7年(1010年)には修理大夫を兼務している。その頃有国は慶滋保胤の出家後に中断されていた勧学会を再興する。寛弘8年(1011年)7月11日薨去。享年69。最終官位は参議従二位兼修理大夫勘解由長官。
人物
藤原惟成と並んで文章に秀でて、藤原兼家政権下では長く弁官を務めた有能な事務官人であった。
逸話
花山朝(永観2年〔984年〕 - 寛和2年〔986年〕)において藤原惟成が権勢を振るっていた頃、有国が従属の証として名簿を惟成に差し出した。惟成は驚いて「藤賢(有国)・式太(惟成)といえばかつて(文章道において優れている者として)並び称されたものであるにもかかわらず、なぜ名簿など差し出すのか」と問うた。有国は「惟成に取り入るのは、万人に抜き出でて出世してやろうと思っているからである」と答えたという。[2]
説話
有国が若い頃、豊前守に任ぜられた父輔道とともに九州に下向した。輔道は下向先で病気で死亡してしまったため、有国は父親のために泰山府君祭[3]を行った所、輔道は生き返った。輔道が言うところによると、現世の罪を裁く閻魔大王から、(泰山府君祭による)すばらしいお供え物があったことから、現世に返してやるべきとの評定があった。しかし、評定の際に陰陽道の専門家でもない者(有国)が泰山府君祭を行うことは大罪であるため、輔道の代わりに有国をあの世に呼び寄せるべきとの意見があったが、あの世の冥官の中で、親孝行による行為である上に、京都から遠い九州の地では陰陽道の専門家がいないのはやむを得ない、との意見があり親子共々許されたという。[4]