脇屋義助
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 嘉元3年(1305年)[1] |
死没 | 興国3年/康永元年5月11日(1342年6月25日) |
改名 | 小次郎(幼名)→義助 |
墓所 |
福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺? 鳥取県倉吉市新町の大蓮寺 |
官位 |
正五位下、左衛門佐、伊予守、兵庫助、 刑部卿、左馬権頭、弾正大弼、従四位下 贈従三位 |
氏族 | 新田氏、脇屋氏 |
父母 | 父:新田朝氏 |
兄弟 | 新田義貞、義助、大館宗氏室 |
子 | 義治、娘(中宮大夫行尹室) |
脇屋 義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。新田朝氏の次男で、新田義貞の弟。
生涯
上野国新田郡脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから名字「脇屋」を称した。
元弘3年(1333年)5月、兄義貞とともに新田荘にて挙兵して鎌倉を攻める。執権北条氏の滅亡、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、諸将の論功行賞によって、同年8月5日、正五位下に叙位。左衛門佐に任官。
また、同年、一時期、駿河国守護にもなる。以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任。また、このころ設置された武者所の構成員となり、同所五番となる。
その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した。延元元年/建武3年(1336年)、刑部卿に転任。延元3年/建武5年(1338年)に義貞が不慮の戦死を遂げると越前国の宮方の指揮を引き継いだ。 兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局幕府軍に敗れて越前から退いた。
延元4年/暦応2年(1339年)9月には従四位下に昇叙する。
興国3年/康永元年(1342年)、中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡り、伊予の土居氏・得能氏を指導し、一時は勢力をふるったが、伊予国府で突如発病し、そのまま病没した。享年38。墓所は倉吉打吹の大蓮寺。
死後
昭和8年(1933年)、兄・義貞の館跡と考えられている群馬県太田市の安養寺から脇屋義助を追悼する板碑が発見された。種字には金泥が塗られていたが、北朝年号であったことから真贋論争が起きた。現在では北朝方についた新田一族(岩松氏?)が建てた本物と考えられている。この板碑から義助の正確な生没年月日が判明した。
その他
- 『太平記』巻十において、中世武士道について語っており、「弓矢の道、死を軽んじて名を重んずるを以って義とせり」と考えを示している。
- 新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる[3][4]。
演じた人物
脚注
- ^ 嘉元元年(1303年)生まれの説もある。
- ^ 公文類聚・第七編・明治十六年・第九巻・賞恤四・賞賜二、八月六日「故従四位下名和長年以下七名ヘ位階ヲ贈ル・附贈位宣告方」国立公文書館pdf。宣旨や達は脇屋義助を本姓で故従五位下源朝臣義助と書く。内閣書記官稟議以下は通称で脇屋義助と書く(3コマ目左端から)。
- ^ 太田市の姉妹・友好都市
- ^ 今治市:姉妹都市交流