聖母の出現

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聖母の出現(せいぼのしゅつげん)はカトリック教会の用語で、聖母マリアが人々の前に現れたとされる出来事をいう。この出来事を目撃した人は、常にはキリスト教徒とは限らないが、カトリック信者であることが多い。

正教会でも生神女マリヤが現れたと伝えられる聖人伝などはあるものの、特に「聖母の出現」といった概念整理は行われていない。

概説

カトリック教会は、各地区の司教バチカン教皇庁)の担当者などの認定作業を経てこれらの出来事を公認するか否かを表明している。カトリック教会によると、これは人々が聖母の形をとった悪霊に支配されないために必要な手順であるとされる。

カトリック教会には従来、聖母マリアは受胎の瞬間から原罪を免れていたとする教えがある。これを「聖母の無原罪の御宿り(御孕り)」という。原罪を免れているということは、罪の結果である死を免れることになり、さらには死の前兆である老いも免れていたことになる(このために、西ヨーロッパのカトリック圏で描かれる聖母はみな若い女性であり、有名なミケランジェロピエタの聖母も、とても推定30歳前後のイエスの母とは思えない若い女性として描かれている)。そして聖母は生涯の終わりに死ぬのではなく、身体とともに天に上げられたとされる。これを聖母被昇天という。このために、カトリックの教えでは聖母は未だに身体とともに生き続けていることになり、これが聖母の出現を即座に否定できない根拠となっている。

比較宗教学的見地からは、世界各地での聖母の出現は、土着の女神信仰とキリスト教のシンクレティズムの産物であり、それぞれの地域の人々は聖母マリアの形を借りて、自分たちが古くから受け継いできた女神を信仰しているという見方もある。これは特にキリスト教国家によって植民地化され、キリスト教への改宗を強制された地域に見られる特異なマリア崇拝を説明する(古くはローマに支配されたガリアの黒マリア、新しくはスペインポルトガルに支配された中南米や東南アジアの聖母崇拝)。

聖母の警告や聖母への誓いをないがしろにしたために、悲惨な結果を迎えたとカトリック信者などに信じられている歴史上の人物の例としては、フランス王朝があげられる。フランス王朝は、ルイ14世が聖母に奉献した聖堂建設などの誓いを放棄した結果、破綻し、革命でとらえられた王が後悔して牢内で命令を発した際は既に手遅れであった、などと表現される。

空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)と呼ばれた前任のヨハネ・パウロ2世は、聖母の出現地とその意向をくまなく網羅したとされる。

カトリック教会公認の出現

  • イタリアローマ:子供がいないと嘆いていた裕福な夫妻の夢に聖母が現れ、雪で示す場所に教会を建てるよう勧めた。教皇も同じ日に同じ夢を見た。現在の雪の聖母教会は、非常に暑い8月に雪に覆われていた場所に建てられた。この話は1250年頃にトレントのフラ・バルトロメオによって記述されたものであり、御出現の正確な年代は分かっていない。
  • イスラエルカルメル山の聖母:1251年、スカプラリオによる救霊・危険からの保護・平和と永遠の約束。
  • メキシコグアダルペの聖母:1531年、インディオに出現。先住民を弾圧から救済。
  • フランス・サンテチエンヌ・ル・ロ: 1664年から1718年の54年間にわたりブノワット・ランキュレルに出現。1665年に教区司教認可。2008年聖座より公認、21世紀初の認可となる。
  • フランス・不思議のメダイ:1830年、聖カタリナ・ラブレに出現、メダイを身につける人への聖母の保護を約束。
  • フランス・ラ・サレット(La Salette)の聖母:1846年9月19日、一人の美しい婦人がアルプスの標高1800mの高地の牧場に出現し牧童二人に泣きながら語った。それは来るべき飢饉への警告だった。警告は無視され、約100万人が餓死したとされる。
  • フランス・ルルド(Lourdes)の聖母:1858年2月11日、14歳の少女ベルナデッタ・スビルーの目の前に現れた。病者への癒しと慰め。
  • フランス・ポンマン:1871年、間近に迫った敵軍の撤退、戦争終結と徴兵された子供たちの生還の予告。
  • アイルランドクノック:1879年、教会の屋根の下に、聖母・聖ヨセフ・聖ヨハネが出現したのを15人が目撃。
  • ポルトガルファティマ(Fátima)の聖母:1917年5月13日、核戦争による人類滅亡を防ぐよう警告。
  • ベルギーボーラン1932~32年。
  • ベルギー・バンヌ:1933年、病者への癒しと慰め。
  • イタリア・シラクサの涙の聖母像:1953年、病者への励ましと慰め。
  • 日本秋田の聖母:1973年、アムステルダムの聖母像をモデルに作られた聖母像から涙、回心を警告。1984年、教区司教が認可し、1988年に教皇庁のヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(現・教皇ベネディクト16世)が受理。

カトリック教会未公認の出現

聖母出現の報告は数千例以上あり、調査しきれていない。このため、未公認は必ずしもカトリック教会によって否定された事例ではない。教区司教は認可したが、バチカン(教皇庁)によって承認されていない出現も含まれる。

  • フランス各地:900年代にフランス各地に聖母が幾度か出現。滅びないようにと人々に回心と祈りを呼びかけ、人々は仕事もそこそこに聖母の教え通り祈りに祈って祈り続けた。1000年を過ぎてしばらくすると、人々は今度は何事もなかったことについてあらためて聖母に感謝の祈りを捧げている。
  • 日本・仙台:聖母像に助命を懇願した子供の救命。
  • ベトナムラ・ヴァン:1798年、迫害を受けた信者を守った。
  • 日本・津和野:拷問を受けている信者に語りかけ、励ました。教区司教が認可。
  • ドイツ:1937年、ロザリオを祈るよう求めた。
  • オランダアムステルダム:1945年~、核戦争による人類滅亡を防ぐよう警告、罪の償いを求めた。2002年、教区司教が認可。
  • スペインガラバンダル(Garabandal)の聖母:1961年6月18日~1965年、大天罰の警告が四人の少女によって預言された。全世界と司祭の回心を求められた。
  • エジプトカイロのコプト派教会:鳩や十字架や幼いイエスとともに100回程出現。コプト派教会公認
  • ボスニア・ヘルツェゴビナメジュゴリエ:1981年~、回心と平和を求めた。聖母は「これが私の最後の出現です」と伝えた。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争などの旧ユーゴスラビア解体に伴う戦争の中で、イスラム教徒等諸宗教との平和共存を呼びかけるメッセージであった。
  • ルワンダ・キベホ教会:1980年代の紛争直前に出現、信者を励ました。
  • アメリカカリフォルニア州:2005年12月、サクラメント市内のベトナム系カトリック教会の聖母像から血の涙。

出現の意向は、「苦難を受けている人々への励まし」「救命」「救霊」「警告」に区分される。

カトリック教会が否定する出現

関連資料

  • 聖母マリアの出現ファイル(スペイン語)
  • 『聖母の出現ーー近代フォーク・カトリシズム考』関一敏 著 日本エディタースクール出版部 1993年発行
  • 『マリアの出現』バルネイ、シルヴィ、近藤真理訳 せりか書房1996年発行

外部リンク