総力戦研究所
総力戦研究所(そうりょくせんけんきゅうじょ)とは、大日本帝国において昭和15年(1940年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の研究所である。
この機関は国家総力戦に関する基本的な調査研究と“研究生”として各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちに対し、総力戦体制に向けた教育と訓練を目的としたものであった。昭和20年(1945年)4月1日付施行の勅令第115号により廃止。
概要
本来の目的は「国防」という問題について一般文官と軍人(武官)が一緒に率直な議論を行うことによって国防の方針と経済活動の指針を考察し、統帥の調和と国力の増強をはかることにあったとされている。総力戦研究所構想は沼田多稼蔵(企画院第一部長(昭和14年(1939年)8月1日~昭和16年(1941年)4月1日))の発案だったとされ、内閣情報局分室跡で開所されることとなった。
昭和15年(1940年)10月1日、企画院内で総力戦研究所の開所式が執り行われた。初代所長に星野直樹、所員には渡辺渡(陸軍大佐)、松田千秋(海軍大佐)、奥村勝毅(外務省東亜局第二課長)、大島弘夫(内務省外事課長)、前田克巳(大蔵省主計局調査課長)、寺田清二(農林省蚕糸局長)、岡松成太郎(商工省官房統計課長)らが最初に充てられた。同年12月3日、研究所主事に岡新(海軍少将)、技本総務部長兼任所員として藤室良輔[1](陸軍少将、昭和16年(1941年)10月に同所主事)が加わった。
昭和16年(1941年)4月1日に入所した第一期研究生は、官僚27名(文官22名・武官5名)と民間人8名の総勢35名。その後4月7日になって、皇族・閑院宮春仁王(陸軍中佐。当時、陸軍大学校学生)が特別研究生として追加入所した。一期生は昭和17年(1942年)3月まで研究・研修を行い卒業となった。
昭和17年(1942年)4月に第二期生39名を、昭和18年(1943年)には第三期生40名を受け入れている。その三期生は、同年12月15日で繰り上げ卒業。これ以降、総力戦研究所は開店休業状態となった。
画期的な机上演習
第一期生の入所から3か月余りが経過した昭和16年(1941年)7月12日。2代目所長飯村穣(陸軍中将)は研究生に対し、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画を発表。同日、研究生たちによる演習用の青国(日本)模擬内閣も組織された。
模擬内閣閣僚となった研究生たちは7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。
この机上演習の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。
研究会の最後に東條陸相は、参列者の意見として以下のように述べたという。
諸君の研究の勞を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、實際の戰争といふものは、君達が考へているやうな物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝國は勝てるとは思はなかつた。然し勝つたのであります。あの當時も列强による三國干渉で、やむにやまれず帝國は立ち上がつたのでありまして、勝てる戰争だからと思つてやつたのではなかつた。戰といふものは、計畫通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がつていく。したがつて、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素といふものをば、考慮したものではないのであります。なほ、この机上演習の經緯を、諸君は輕はずみに口外してはならぬといふことであります。
この机上演習は総力戦研究所の評価を高めることにつながったが、現実の政策決定に何らかの影響を与えたかどうかは定かではない。
模擬内閣 閣僚名簿
(昭和16年(1941年)7月12日組閣)
- 内閣総理大臣 - 窪田角一(産業組合中央金庫参事・調査課長)
- 内閣書記官長 - 岡部史郎(衆議院速記課長、のち国会図書館長)
- 法制局長官(兼) - 三淵乾太郎(東京民事地方裁判所判事)
- 外務大臣 - 千葉晧(外務省東亜局)
- 外務次官(兼) - 林馨(在上海日本大使館三等書記官)
- 内務大臣 - 吉岡恵一(内務省地方局)
- 警視総監 - 福田冽(内務省計画局)
- 大蔵大臣 - 今泉兼寛(大蔵省主税局)
- 陸軍大臣 - 白井正辰(陸軍省・陸軍大尉)
- 陸軍次官 - 岡村峻(陸軍省・陸軍主計少佐)
- 海軍大臣 - 志村正(海軍省・海軍少佐)
- 海軍次官 - 武市義雄(海軍省・海軍機関少佐)
- 司法大臣 - 三淵乾太郎
- 文部大臣 - 丁子尚(文部省宗教局宗教課)
- 文部次官 - 倉沢剛(東京女子高等師範学校教諭)
- 農林大臣 - 清井正(農林省官房文書課)
- 商工大臣 - 野見山勉[2](商工省総務局)
- 逓信大臣 - 森巌夫(逓信省官房総務課)
- 鉄道大臣 - 芥川治(鉄道省運輸局)
- 拓務大臣 - 石井喬(拓務省拓南局)
- 厚生大臣 - 三川克巳(厚生省職業局)
- 企画院総裁 - 玉置敬三(物価局第二部化学課長、のちに通産事務次官、東京芝浦電気会長)
- 企画院次長または部長 - 中西久夫(東京府庁、内務官僚)、酒井俊彦(大蔵省理財局)、千葉幸雄(日本製鐵総務部福利課)、保科礼一(三菱鉱業労務部)、前田勝二(日本郵船企画課書記)、矢野外生(農林省官房文書課)
- 情報局総裁 - 秋葉武雄(同盟通信社編輯局東亜部)
- 次長または部長 - 林馨、川口正次郎(内務省警保局)
- 対満事務局次長 - 宮沢次郎(満州国総務庁参事、のちトッパン・ムーア会長)
- 興亜院総務長官 - 成田乾一(済南特務機関、のち日放サービス社長)
- 朝鮮総督 - 日笠博雄(朝鮮総督府殖産局)
- 日本銀行総裁 - 佐々木直(日本銀行資金調整局書記)
- 大政翼賛会副総裁 - 原種行(東京高等学校教授|のち岡山大学教授)
歴代所長
代 | 氏名 | 階級 | 在任期間 | 出身校・期 | 前職 | 後職 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 星野直樹[3] | 1940年10月1日 - 1941年1月10日 | 東京帝国大学 | 企画院総裁 | 内閣書記官長 | |
2 | 飯村穣 | 陸軍中将 | 1941年1月11日 - 10月10日 | 陸士21期 | 参謀本部附 | 第5軍司令官 |
3 | 岡新[4] | 海軍少将 | 1941年10月10日 - 11月1日 | 海兵40期 | 海軍省軍務局御用掛 兼 総力戦研究所主事 |
支那方面艦隊司令部附 |
4 | 遠藤喜一 | 海軍中将 | 1941年11月1日 - 1943年3月9日 | 海兵39期 | 軍令部出仕 | 第一遣支艦隊司令長官 |
5 | 村上啓作 | 陸軍中将 | 1943年3月9日 - 12月16日 | 陸士22期 | 参謀本部附 | 陸軍公主嶺学校長 |
6 | 小川貫爾 | 海軍少将 | 1943年12月16日 - 1945年1月20日 | 海兵43期 | 海軍省軍務局御用掛 兼 総力戦研究所員 |
支那方面艦隊司令部附 |
註
- ^ 府立一中を経て陸幼予科首席卒、同本科首席卒、陸士首席卒、陸大首席卒(35期恩賜)。昭和17年(1942年)8月14日、アメーバ赤痢から肝膿瘍を発し陸軍軍医学校にて病死。
- ^ 戦後の昭和23年(1948年)6月18日、商工省化学局肥料第一課長在任中に資材割当に関する収賄容疑で警視庁捜査二課に留置され、28日、東京地検特捜部により起訴された。昭和27年(1952年)10月27日、執行猶予の付いた有罪判決を言い渡された(「昭電疑獄」参照)。のち、海外市場調査会(ジェトロ)事務局員から昭和29年(1954年)8月14日の海外貿易振興会(同)発足に伴い常務理事、昭和33年(1958年)6月23日の中小企業信用保険公庫発足に伴い通産省代表理事、昭和37年(1962年)7月の海外技術協力事業団の発足に伴い常任理事などに就いた。
- ^ 事務取扱
- ^ 所長心得