細川稙国

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細川稙国
細川稙国像(龍安寺蔵『細川家歴代肖像』より)
時代 戦国時代
生誕 永正5年(1508年)?
死没 大永5年10月23日1525年11月8日
別名 六郎(通称)
戒名 清源院殿了然宗廓
幕府 室町幕府 管領摂津丹波守護
主君 足利義晴
氏族 細川京兆家
父母 父:細川高国、母:細川政賢
兄弟 稙国北畠晴具正室、山名豊定正室、持国高頼安国寺留雲斎
頼国
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細川 稙国(ほそかわ たねくに)は、戦国時代守護大名室町幕府32代管領摂津国丹波国守護細川京兆家16代当主。

生涯

永正5年(1508年)、31代管領・細川高国の子として誕生。母は分家の典厩家当主細川政賢の娘。

のち元服時には、父により擁立され、同じく1508年に将軍に復職していた足利義稙より偏諱を賜い稙国と名乗る。

大永5年(1525年)に厄年を迎えた父が4月21日に出家して法体の身となったため、家督と管領職を父から譲られて後を継いだ。しかし10月23日(12月説もある)、病のため早世した。管領職を譲られて僅か半年のことであった。これに父である高国はひどく落胆したという。享年18。子・頼国は後に東国を流浪したとされる。

生誕年について

前項で生年を永正5年(1508年)としたが、その10年前の明応7年(1498年)とする説もあり、以下のことを踏まえればこちらの可能性が高い。

一つ目に、現実的に考えて、18年の生涯の中で息子(頼国)が生まれているというようには考え難く、生きた年数を28年とすればまだあり得るという考えである。

二つ目に、足利義稙から偏諱を授与された稙国に対して、叔父、すなわち父・高国の弟にあたる晴国通政(のち輝政)が義稙の後に将軍となった義晴義輝から偏諱の授与を受けていることである。将軍から偏諱を賜うのは、元服時に行ってを確定する際が一般的であるため、この順序から言えば稙国の方が年長者と考えられる(甥が叔父より年上であることは珍しくはない)。晴国の生年は長年不詳とされてきたが、近年馬部隆弘が『後法成寺関白記』永正13年8月29日条にある「房州家督誕生」記述を晴国の誕生記事であると結論づけた。従って、稙国が死去した当時の晴国は僅か10歳でまだ元服を行っていなかったことになる。また、馬部は通政(輝政)を長府細川家が創作した架空の人物とも結論づけている[1]

前述の通り、永正5年(1508年)は義稙が復権した年であり、義稙が高国との確執により出奔した大永元年(1521年)までの間に偏諱の授与が行われたかどうかということになる。14歳という年齢は逆に元服には十分な年齢であり、これだけで考えれば永正5年(1508年)生誕説でも差し支えない。また、前述の通り生年を1498年とするならば、父の高国は当時14~15歳という事になる(高国は1484年生まれ)が、この歳で子供がいたとは考えにくい。いずれにせよ、明確にする史料はないため、謎のままである。

管領就任について

前項で細川稙国は大永5年4月21日に細川京兆家の家督を父・高国から譲られ管領職を継いだと記載したが、実際には家督継承時にも同年6月14日には細川京兆家の当主として幕府に初出仕している時にも、管領就任に関する命令が将軍足利義晴から出された記録は無い。そもそも、管領職自体が、大永元年(1521年)12月に義晴の元服関係の儀式終了後に高国が辞任した後はずっと空席のままであったと考えられている[2]

脚注

  1. ^ 馬部隆弘「細川晴国・氏綱の出自と関係-「長府細川系図」の史料批判を兼ねて-」(初出:天野忠幸 他編『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会、2012年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P516-528.
  2. ^ 浜口誠至「戦国期管領の政治的位置」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P180・185

参考文献

関連項目