石上三登志
石上 三登志(いしがみ みつとし、本名:今村昭、1939年1月3日[1] - 2012年11月6日)は、日本のCMディレクター。映画評論家。
人物
電通でCM制作に携わる傍ら、1960年代から映画・SFなどの評論活動をおこなってきた[2]。大林宣彦監督の映画を中心に、俳優としての活動もある。
ペンネームの由来は、石の上にも三年[1][3]。美術監督の今村力は、従兄弟[4]。
来歴
東京都世田谷区池尻出身[1]。福島県立磐城高等学校、明治大学文学部文学科(英米文学専攻)卒業。
1961年にテレビCMプロダクション京映へ入社[5]。第一企画を経て[6]、1964年に先輩の誘いで電通へ移籍した[7][8]。
電通ではラジオ・テレビ企画制作局に配属され[7]。レナウンのイエイエなどのテレビCM制作に携わる傍ら[9]、仁賀克雄、間羊太郎、山口剛、西田恒久らと「推理小説研究会」、曽根忠穂や宮田雪らと同人誌『OFF』の活動をした[5]。
1966年から『映画評論』誌の読者投稿欄「読者論壇」に投稿を始める。このときに本名が嫌いだったこともあり、石上三登志のペンネームを初めて使う。採用が続くうちに編集長の佐藤重臣から原稿依頼を受け、投稿開始8ヶ月目の1966年10月号でライターとしてプロデビューした[3]。
1973年8月下旬号から1979年1月下旬号まで、TVムービーの映画評を断続的に『キネマ旬報』に掲載[10]。この連載は後述の『私の映画史―石上三登志映画論集成』に収録されている。
1970年代後半のSF映画ブームの頃には、「SF映画評論家」「スター・ウォーズ評論家」の異名をとる[11]。
1977年に創刊された『映画宝庫』の責任編集を筈見有弘、増淵健らとともに担当[2]。
同じく1977年には東宝の田中文雄からの依頼で『惑星大戦争』の企画に協力。1978年には電通の仕事として東映のSF映画『宇宙からのメッセージ』の広告を担当した。『キネマ旬報』に東宝のプロデューサー田中友幸論を執筆したことから、田中友幸との関係ができ、1978年に設置されたゴジラ復活会議に参加[12]。1984年に復活した『ゴジラ』に携わることになった[13]。
毎日映画コンクールや藤本賞の審査員を歴任した他[2]、1997年開始の手塚治虫文化賞の審査員を第6回(2002年)まで務めた。
1999年に電通を定年退職。電通で最後に手掛けた仕事である川崎市に建設予定のテーマパーク手塚治虫ワールドの断念が2002年に発表される[14][15]。
その後も日本映画衛星放送(日本映画専門チャンネル・時代劇専門チャンネル)、ジェイ・スポーツ(J SPORTS)の番組審議会委員を務めていた[16][17]。
2012年11月6日、骨髄がんのために死去[18][19]。73歳没。
映画
出演
- HOUSE ハウス (1977年、大林宣彦)
- 瞳の中の訪問者(ブラック・ジャック (実写版)) (1977年、大林宣彦) 兼アドバイザー[1]
- 俗物図鑑 (1982年、内藤誠)
- 星くず兄弟の伝説(1985年、手塚眞)
- 野ゆき山ゆき海べゆき (1986年、大林宣彦) 声演
- 白痴 (1999年、手塚眞)
- 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ (2000年、大林宣彦)
- 理由 (2004年、大林宣彦)
脚本
- けんかえれじい (1966年、鈴木清順) 脚色協力・ノンクレジット[1]。
- 殺しの烙印 (1967年、鈴木清順) 脚色協力・ノンクレジット[1]。
- 竹取物語 (1987年、市川崑) 脚本共作
- 漂流教室 (1987年、大林宣彦) 潤色
その他
- 多様な国土 (1985年、大林宣彦、つくば博70ミリ映像) 製作・構成[1]。
- しらぬい (1992年、製作会社:電通ブロックス、五藤光学研究所、脚本+演出:日笠宣子、ドーム70mm映像(アストロビジョン)、30分、映文連登録番号:15035) 製作[1]。
著書
年 | 題 | 出版社 | 備考 |
---|---|---|---|
1975 | キング・コングは死んだ―私説アメリカ論 | フィルムアート社 | |
1975 | 男たちのための寓話―私説ヒーロー論 | すばる書房盛光社 | |
1977.6 | 吸血鬼だらけの宇宙船―怪奇・SF映画論 | 奇想天外社 | |
1977.12 | 手塚治虫の奇妙な世界 | 奇想天外社 | のち学陽文庫、のち『定本 手塚治虫の世界』として東京創元社(Key Library) |
1980.3 | 地球のための紳士録 | 奇想天外社 | |
1985.7 | ギャグ&(マタ)ギャグ― 映画・漫画・CM・小説…あちこちから集めまくった |
講談社 | |
1986.6 | SF映画の冒険 | 新潮社 | |
1989.8 | 手塚治虫の時代 | 大陸書房 | |
1991.7 | マイ・ビデオ・パラダイス―「東品川アメリカ座」便り | キネマ旬報社 | |
クラシック名画50選 | PD Classic | 共著 | |
2003.6 | 定本 手塚治虫の世界 | 東京創元社 | |
2003.8 | アニメーターズ〈1〉カレル・ゼマン | 日本出版社 | 共著 |
2004 | 教養主義! 現代の〈教養〉のための12のレッスン | フリースタイル | 共著 |
2007 | 名探偵たちのユートピア | 東京創元社 | |
2012.1 | 私の映画史―石上三登志映画論集成 | 論創社 |
この節の加筆が望まれています。 |
訳書
年 | 題 | 出版社 | 備考 |
---|---|---|---|
1982.1 | 構想の死角・別れのワイン | 二見書房 | |
1987.12 | ジョージ・ルーカスのSFX工房 | 朝日新聞社 | |
1992.1 | 私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、 しかも10セントも損をしなかったか―ロジャー・コーマン自伝 |
早川書房 | 共訳 |
他に『刑事コロンボ』のノベライゼーションの翻訳多数。なお「翻訳」となっているが、脚本をもとにした日本独自のノベライゼーションである。詳細は「刑事コロンボ」を参照。
この節の加筆が望まれています。 |
脚注
- ^ a b c d e f g h 佐藤忠男 『日本の映画人―日本映画の創造者たち』 (2007年、日外アソシエーツ)
- ^ a b c 森卓也、石上三登志 「海外アニメーションの歴史と現在~オールタイム・ベストを振り返って」『オールタイム・ベスト 映画遺産 アニメーション篇』キネマ旬報特別編集、キネマ旬報社、2010年、p.129。石上三登志プロフィールより。
- ^ a b 石上三登志 「『映画ノート』はドタバタ史 28 趣味?仕事?石の上にも三年?』周囲の人々」『キネマ旬報』2011年5月下旬号、pp.82-83
- ^ 石上三登志、樋口真嗣 「東宝特撮の歴史とその魅力を繙く」『キネマ旬報』2009年9月下旬号、p.32
- ^ a b 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 23 映画同人誌を作ろう!」『キネマ旬報』2010年11月下旬号、pp.106-107
- ^ 石上三登志 「『映画ノート』はドタバタ史 25 『OFF』周囲の人々」『キネマ旬報』2011年1月下旬号、pp.98-99
- ^ a b 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 30 われら"ワイルドバンチ"!!」『キネマ旬報』2011年6月下旬号、p.84
- ^ 石上三登志 アートスペース・サンカイビアステックス公式サイト内
- ^ 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 31 『2001年』の近所の小宇宙」『キネマ旬報』2011年7月上旬号、pp.102-103
- ^ 三谷幸喜「三谷幸喜のありふれた生活607」『朝日新聞』2012年11月23日付第27面
- ^ 石上三登志 「SF黎明期の日本に上陸した『スター・トレック』が長く愛された理由」『キネマ旬報』2009年6月下旬号、p.69
- ^ 木原浩勝、志水俊文、中村哲編 『ゴジラ 東宝特撮未発表資料アーカイヴ プロデューサー・田中友幸とその時代』 角川書店、2010年、p.16
- ^ 石上三登志、樋口真嗣 「東宝特撮の魅力とその歴史を紐解く」『キネマ旬報』2009年9月下旬号、pp.32-37
- ^ 岡田斗司夫、唐沢俊一、眠田直、切通理作、氷川竜介、米沢嘉博 『日本オタク大賞』扶桑社、2003年、pp.161、220
- ^ 手塚ワールドの建設断念 長引く不況が背景 共同通信 2002年11月5日
- ^ “日本映画衛星放送株式会社 第 30 回番組審議会議事録” (PDF). 日本映画衛星放送 (2012年11月13日). 2015年1月31日閲覧。
- ^ “株式会社ジェイ・スポーツ 2011年度第2回番組審議会議事録”. ジェイ・スポーツ (2011年11月8日). 2012年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月31日閲覧。
- ^ 石上三登志さん逝去 東京創元社 2012年11月11日閲覧
- ^ 映画評論家の石上三登志氏が死去 読売新聞 2012年11月12日 2012年11月12日閲覧