石上三登志

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。182.58.57.142 (会話) による 2016年2月18日 (木) 11:43個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (replace archive.today -> archive.is (domain archive.today blocked by onlinenic))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

石上 三登志(いしがみ みつとし、本名:今村昭、1939年1月3日[1] - 2012年11月6日)は、日本CMディレクター映画評論家

人物

電通でCM制作に携わる傍ら、1960年代から映画・SFなどの評論活動をおこなってきた[2]大林宣彦監督の映画を中心に、俳優としての活動もある。

ペンネームの由来は、石の上にも三年[1][3]。美術監督の今村力は、従兄弟[4]

来歴

東京都世田谷区池尻出身[1]福島県立磐城高等学校明治大学文学部文学科(英米文学専攻)卒業。

1961年にテレビCMプロダクション京映へ入社[5]第一企画を経て[6]1964年に先輩の誘いで電通へ移籍した[7][8]

電通ではラジオ・テレビ企画制作局に配属され[7]レナウンのイエイエなどのテレビCM制作に携わる傍ら[9]仁賀克雄間羊太郎山口剛西田恒久らと「推理小説研究会」、曽根忠穂宮田雪らと同人誌『OFF』の活動をした[5]

1966年から『映画評論』誌の読者投稿欄「読者論壇」に投稿を始める。このときに本名が嫌いだったこともあり、石上三登志のペンネームを初めて使う。採用が続くうちに編集長の佐藤重臣から原稿依頼を受け、投稿開始8ヶ月目の1966年10月号でライターとしてプロデビューした[3]

1973年8月下旬号から1979年1月下旬号まで、TVムービーの映画評を断続的に『キネマ旬報』に掲載[10]。この連載は後述の『私の映画史―石上三登志映画論集成』に収録されている。

1970年代後半のSF映画ブームの頃には、「SF映画評論家」「スター・ウォーズ評論家」の異名をとる[11]

1977年に創刊された『映画宝庫』の責任編集を筈見有弘増淵健らとともに担当[2]

同じく1977年には東宝の田中文雄からの依頼で『惑星大戦争』の企画に協力。1978年には電通の仕事として東映のSF映画『宇宙からのメッセージ』の広告を担当した。『キネマ旬報』に東宝のプロデューサー田中友幸論を執筆したことから、田中友幸との関係ができ、1978年に設置されたゴジラ復活会議に参加[12]1984年に復活した『ゴジラ』に携わることになった[13]

毎日映画コンクール藤本賞の審査員を歴任した他[2]1997年開始の手塚治虫文化賞の審査員を第6回(2002年)まで務めた。

1999年に電通を定年退職。電通で最後に手掛けた仕事である川崎市に建設予定のテーマパーク手塚治虫ワールドの断念が2002年に発表される[14][15]

その後も日本映画衛星放送日本映画専門チャンネル時代劇専門チャンネル)、ジェイ・スポーツ(J SPORTS)の番組審議会委員を務めていた[16][17]

2012年11月6日、骨髄がんのために死去[18][19]。73歳没。

映画

出演

脚本

その他

  • 多様な国土 (1985年、大林宣彦、つくば博70ミリ映像)  製作・構成[1]
  • しらぬい (1992年、製作会社:電通ブロックス、五藤光学研究所、脚本+演出:日笠宣子、ドーム70mm映像(アストロビジョン)、30分、映文連登録番号:15035)  製作[1]

著書

出版社 備考
1975 キング・コングは死んだ―私説アメリカ論 フィルムアート社
1975 男たちのための寓話―私説ヒーロー論 すばる書房盛光社
1977.6 吸血鬼だらけの宇宙船―怪奇・SF映画論 奇想天外社
1977.12 手塚治虫の奇妙な世界 奇想天外社 のち学陽文庫、のち『定本 手塚治虫の世界』として東京創元社(Key Library)
1980.3 地球のための紳士録 奇想天外社
1985.7 ギャグ&(マタ)ギャグ―
映画・漫画・CM・小説…あちこちから集めまくった
講談社
1986.6 SF映画の冒険 新潮社
1989.8 手塚治虫の時代 大陸書房
1991.7 マイ・ビデオ・パラダイス―「東品川アメリカ座」便り キネマ旬報社
クラシック名画50選 PD Classic 共著
2003.6 定本 手塚治虫の世界 東京創元社
2003.8 アニメーターズ〈1〉カレル・ゼマン 日本出版社 共著
2004 教養主義! 現代の〈教養〉のための12のレッスン フリースタイル 共著
2007 名探偵たちのユートピア 東京創元社
2012.1 私の映画史―石上三登志映画論集成 論創社

訳書

出版社 備考
1982.1 構想の死角・別れのワイン 二見書房
1987.12 ジョージ・ルーカスのSFX工房 朝日新聞社
1992.1 私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、
しかも10セントも損をしなかったか―ロジャー・コーマン自伝
早川書房 共訳

他に『刑事コロンボ』のノベライゼーションの翻訳多数。なお「翻訳」となっているが、脚本をもとにした日本独自のノベライゼーションである。詳細は「刑事コロンボ」を参照。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 佐藤忠男 『日本の映画人―日本映画の創造者たち』 (2007年、日外アソシエーツ
  2. ^ a b c 森卓也、石上三登志 「海外アニメーションの歴史と現在~オールタイム・ベストを振り返って」『オールタイム・ベスト 映画遺産 アニメーション篇』キネマ旬報特別編集、キネマ旬報社、2010年、p.129。石上三登志プロフィールより。
  3. ^ a b 石上三登志 「『映画ノート』はドタバタ史 28 趣味?仕事?石の上にも三年?』周囲の人々」『キネマ旬報』2011年5月下旬号、pp.82-83
  4. ^ 石上三登志、樋口真嗣 「東宝特撮の歴史とその魅力を繙く」『キネマ旬報』2009年9月下旬号、p.32
  5. ^ a b 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 23 映画同人誌を作ろう!」『キネマ旬報』2010年11月下旬号、pp.106-107
  6. ^ 石上三登志 「『映画ノート』はドタバタ史 25 『OFF』周囲の人々」『キネマ旬報』2011年1月下旬号、pp.98-99
  7. ^ a b 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 30 われら"ワイルドバンチ"!!」『キネマ旬報』2011年6月下旬号、p.84
  8. ^ 石上三登志 アートスペース・サンカイビアステックス公式サイト内
  9. ^ 石上三登志「『映画ノート』はドタバタ史 31 『2001年』の近所の小宇宙」『キネマ旬報』2011年7月上旬号、pp.102-103
  10. ^ 三谷幸喜「三谷幸喜のありふれた生活607」『朝日新聞』2012年11月23日付第27面
  11. ^ 石上三登志 「SF黎明期の日本に上陸した『スター・トレック』が長く愛された理由」『キネマ旬報』2009年6月下旬号、p.69
  12. ^ 木原浩勝、志水俊文、中村哲編 『ゴジラ 東宝特撮未発表資料アーカイヴ プロデューサー・田中友幸とその時代』 角川書店、2010年、p.16
  13. ^ 石上三登志、樋口真嗣 「東宝特撮の魅力とその歴史を紐解く」『キネマ旬報』2009年9月下旬号、pp.32-37
  14. ^ 岡田斗司夫、唐沢俊一、眠田直、切通理作、氷川竜介、米沢嘉博 『日本オタク大賞』扶桑社、2003年、pp.161、220
  15. ^ 手塚ワールドの建設断念 長引く不況が背景 共同通信 2002年11月5日
  16. ^ 日本映画衛星放送株式会社 第 30 回番組審議会議事録” (PDF). 日本映画衛星放送 (2012年11月13日). 2015年1月31日閲覧。
  17. ^ 株式会社ジェイ・スポーツ 2011年度第2回番組審議会議事録”. ジェイ・スポーツ (2011年11月8日). 2012年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月31日閲覧。
  18. ^ 石上三登志さん逝去 東京創元社 2012年11月11日閲覧
  19. ^ 映画評論家の石上三登志氏が死去 読売新聞 2012年11月12日 2012年11月12日閲覧

外部リンク