牧野周一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。240b:c010:413:3e4c:95c:8625:15d1:d6a2 (会話) による 2022年11月24日 (木) 02:51個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎経歴)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

牧野まきの 周一しゅういち
本名 宇野 主一
生年月日 1905年2月21日
没年月日 (1975-05-03) 1975年5月3日(70歳没)
師匠 徳川夢声
弟子 ポール牧
牧伸二
出囃子 デイビー・クロケットのテーマ
活動内容 映画説明者
漫談家
家族 長男∶宇野功
三男∶宇野道義
所属 東京演芸協会
日本芸術協会

牧野 周一(まきの しゅういち、1905年2月21日 - 1975年5月3日)は、日本映画説明者漫談家東京演芸協会第2代会長。本名:宇野 主一出囃子は『デイビー・クロケットのテーマ』。

経歴

1905年明治38年)2月21日宮城県石巻市に生まれ、2歳から東京で過ごした。旧制東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)の受験に失敗し旧制麻布中学校(現在の麻布高等学校)に進学するも母子家庭で学資が続かず中途退学し、さらに進学した大倉商業学校(現在の東京経済大学)も中退する。

そんな中、赤坂帝国館が開業するという広告を見て、弁士になろうと同館の個人経営者であった南川光作に直接交渉。しかし既に主任として決まっている弁士があって、その弁士の補助弟子のようなかたちで出勤することになっていた。しかし開業直前にその主任弁士が八百屋の娘と駆け落ち、牧野が弁士として舞台を務めたという[1]

1923年(大正12年)、映画説明者(活動弁士)の徳川夢声に弟子入りし広尾不二館で初舞台を踏んだ。1926年(大正15年)に、夢声を中心として結成されたナヤマシ会に参加する。有楽町の邦楽座(現在の丸の内ピカデリー)、新宿武蔵野館等で活躍した。その後、サイレント映画からトーキーへ移行したことに伴い、漫談に転じた。1939年(昭和14年)には国策記録映画として製作されたドキュメンタリー映画『南進台湾』で解説を担当したことがあった。戦後は民間放送開始のブームで一躍人気者となった。また、ラジオ東京しろうと寄席』の司会者も務めた。


1965年(昭和40年)、文化庁芸術祭奨励賞を受賞する。1975年5月3日、心不全で70歳で死去した。

家族

弟子

出演

映画

脚注

  1. ^ 本の話 2010年7月号(文藝春秋)p70-71「牧野誠一の昭和の芸人ちょっといい話」