湯原元一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。庚寅五月 (会話 | 投稿記録) による 2015年9月29日 (火) 15:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (+{{Infobox 人物}} {{Succession box}} {{Normdaten}}、定義文変更、整形)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ゆはら もといち

湯原 元一
生誕 (1863-09-24) 1863年9月24日文久3年8月12日
肥前国佐賀(現・佐賀県佐賀市
死没 (1931-10-04) 1931年10月4日(68歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 教育者官僚
肩書き 正三位勲二等
東京高等学校名誉教授(1930年)
テンプレートを表示

湯原 元一(ゆはら もといち、1863年9月24日文久3年8月12日) - 1931年昭和6年)10月4日)は明治時代から昭和初期にかけての日本教育者文部官僚東京音楽学校東京芸術大学音楽学部の前身)および東京女子高等師範学校お茶の水女子大学の前身)校長、東京高等学校東京大学教養学部の前身の一つ)初代校長を歴任した。は易水。

来歴・人物

佐賀藩士石井家に生まれる。実父は医師。幼少時に母方の湯原家を継ぐ。実父の勧めもあって、東京帝国大学医学部に進学し、卒業。しかし、医師にはならずに文部省に入省する。福岡県を皮切りに、全国各地の公立尋常中学校で教諭として教鞭をとる。新潟県庁、北海道庁に出向し、教育行政の指揮にあたった後、再び教育の現場に復帰し、第五高等学校教授に就任。その時、同僚に夏目漱石小泉八雲がおり、親交を深める。1907年明治40年)には東京音楽学校長(後の東京藝術大学)に就任。1917年大正6年)には東京女子高等師範学校長(後のお茶の水女子大学)に、1921年(大正10年)には東京高等学校[1]初代校長に就任した。1930年7月1日、東京高等学校名誉教授となる[2]

湯原の教育姿勢は、欧米流の自由主義教育を基調とし、生徒を理不尽に縛らずに、主体性を重んじたという。また、過去の慣例にとらわれず、学校改革も推進し、有能な教師を抜擢したりした。日本の童謡の先駆者吉丸一昌は、第五高校時代の教え子であり、湯原が東京音楽学校長に就任した際、教授に抜擢した人物であった。

栄典

著作

  • 湯原元一 「ヘルバルト派教育学説の全盛時代」(国民教育奨励会編纂 『教育五十年史』 民友社、1922年10月)
    • 国民教育奨励会編纂 『教育五十年史』 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1981年4月
    • 国民教育奨励会編纂 『教育五十年史』 日本図書センター、1982年1月
  • 湯原元一 「普選と教育」(社団法人東京放送局編 『ラヂオ講演集 第一輯』 日本ラジオ協会、1925年11月、71-78頁) - 1925年3-4月に東京放送局が放送したもの。
  • 湯原先生記念会編 『湯原先生記念出版 易水想波』 東京開成館、1928年3月
著書
訳書
  • 湯原元一訳補 『倫氏 教育学』 金港堂書籍、1893年5月
    • 湯原元一訳補 『倫氏教育学』 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1981年4月
  • 湯原元一訳補 『倫氏 教授学』 金港堂書籍、1896年6月
    • 仲新ほか編 『近代日本教科書教授法資料集成 第3巻』 東京書籍、1982年9月
  • 湯原元一、岩田巌次郎訳補 『慕氏 小学管理法』 金港堂書籍、1897年3月
  • 湯原元一抄訳 『倫氏 教育学教科書』 金港堂書籍、1901年8月
編書

脚注

  1. ^ 後の東京大学教育学部附属中等教育学校に系譜が繋がる。
  2. ^ 『官報』第1051号、昭和5年7月2日。
  3. ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
  4. ^ 『官報』第1201号「叙任及辞令」1916年8月01日

関連文献

外部リンク

公職
先代
(新設)
日本の旗 東京高等学校
1921年 - 1927年
次代
塚原政次