平山郁夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 - 2009年12月2日[1])は日本画家教育者日本美術院理事長一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。

現代日本画壇の最高峰に位置する画家であり、その作品価格は画家の中で飛びぬけて高い[2]。息子はカメの研究で知られる古代生物学者の平山廉早稲田大学教授)。

目次

[編集] 人物

薬師寺玄奘塔

旧制広島修道中学(現修道中学校・高等学校)3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠広島市への原子爆弾投下により被災[1]。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点になっている。

第二次世界大戦後は実家に近い旧制忠海中学(現広島県立忠海高等学校)に転校した。ここでは高橋玄洋と同級生となっている。卒業後、清水南山(祖母の兄)の強い勧めもあり東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。前田青邨に師事する[1]

東京芸術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展に入選する。以降、郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。

仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。

郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまでシルクロードをくまなく旅している[1]。その成果は奈良薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実している。

アッシジのサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写、法隆寺金堂壁画の模写、高松塚古墳壁画の模写や[1]ユネスコ親善大使として北朝鮮高句麗古墳群世界遺産登録推進に寄与した功績で韓国政府より修交勲章興仁章受章、「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアアンコール遺跡救済活動、敦煌莫高窟の保存事業、南京城壁の修復事業、バーミヤンの大仏保護事業などの文化財保護や相互理解活動を評価されるなどその活動は幅広く社会への影響も大きい。

教育者の立場から長年にわたって後進の指導に当たった。

[編集] 批評

日本とアジア諸国との友好活動や東北アジア・中央アジアでの文化財保護活動はアジア諸国、特に中国政府から評価が高く「文化交流貢献賞」が贈られている。またマニラ市のラモン・マグサイサイ賞財団よりマグサイサイ賞を贈られている。

このように社会的活動を肯定的に評価する意見がある一方、「文化大革命や都市開発により中国人自身の手によって破壊された中国の歴史的建造物を『戦時中に日本軍が破壊した』として日本人から寄付金を募って中国の文化財の復元事業に当てた」とし、「中国の対日世論工作の尖兵となって社会活動をした」と反中国的な視点から否定的批判も受けている。「梁思成は日本の古都の大恩人」という事実無根のプロパガンダに基づいて寄付金を募って梁思成の銅像建立事業を主導した事も批判の対象となっている。また国立大学(後に国立大学法人)である東京藝術大学の学長という公職にありながら、出版社、百貨店、放送局などとタイアップした自作の展覧会を学外で大々的に行い、売り上げを上げている点などを問題だとして批判する人もいるようだ。

日本画家全般に日本国外では日本国内と比べて画家として知名度が低く、売れないという傾向は平山の場合にも例外ではない。

[編集] 年譜

[編集] 栄典・表彰等

[編集] 主な作品

[編集] 絵画

[編集] 著書

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k “日本画家の平山郁夫氏が死去 79歳”. 日本経済新聞. (2009年12月2日). http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20091202AT3U1300302122009.html 2009年12月2日閲覧。 
  2. ^ 書画肆しみづ現存日本画家評価価格分布一覧(2006年

[編集] 関連項目

平山郁夫美術館

[編集] 外部リンク


個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語