武蔵川部屋

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武蔵川部屋(むさしがわべや)は、かつて日本相撲協会に所属していた相撲部屋出羽海一門に属していた。

沿革

雷系の元幕下鴨緑江の武蔵川親方が、1931年に中川親方(元雷部屋の鬼鹿毛)が亡くなったあと、残された弟子たちを引き取り一時期部屋を興した。三熊山美夫が十両に昇進したが、1933年に部屋を閉じ、三熊山も含めた弟子は鏡山部屋に移籍した。

その後、1980年(昭和55年)11月場所限りで引退した出羽海部屋(第50代横綱佐田の山)所属の第57代横綱・三重ノ海は、年寄山科(後に武蔵川に名跡変更)を襲名して出羽海部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1981年(昭和56年)8月に出羽海部屋からの分家独立を許され武蔵川部屋を創設した。14代武蔵川は横綱・武蔵丸を育て上げたほか、大学相撲部出身者の勧誘を積極的に行い、幕下付出力士から大関出島、大関・武双山、大関・雅山小結垣添などを育てた。

出羽海部屋は、中興の祖である5代出羽海(第19代横綱・常陸山)の「不許分家独立」の不文律により長年分家独立を認めなかったが、この武蔵川部屋は1919年(大正8年)に当時まだ現役の第27代横綱・栃木山が常陸山直々に許可を受けて春日野部屋を創設して以来、実に62年ぶりの円満独立だった。円満独立できた背景には、三重ノ海の人格を評価して武蔵川の年寄名跡を譲った13代武蔵川(前1・出羽ノ花、第4代日本相撲協会理事長、三重ノ海の出羽海部屋入門時の師匠でもあった)が、分家独立を全面バックアップしたことが挙げられる。

藤島部屋へ譲渡

14代武蔵川(第57代横綱・三重ノ海)は、第10代日本相撲協会理事長在任中に体調を崩したことなどもあったが、以前から予定していた通り部屋の経営を18代藤島(大関・武双山)に禅譲した。なお、部屋継承に当たって武蔵川と藤島の年寄名跡を交換せず、2010年9月30日をもって武蔵川部屋から藤島部屋へと看板を掛け替えた[1]

所在地

※独立当初は江東区平野に部屋を構えていた。

師匠

力士

※最高位・四股名は、武蔵川部屋が閉じられた2010年9月場所まで

横綱・大関

横綱

大関

幕内

小結

平幕

十両

幕内優勝力士

所属年寄

  • 振分光洋(ふりわけ こうよう、横綱・武蔵丸、アメリカ)
  • 藤島武人(ふじしま たけひと、大関・武双山、茨城)
  • 大鳴戸武春(おおなると たけはる、大関・出島、石川)
  • 山分喬喜(やまわけ たけよし、前1・武雄山、愛知)

脚註

  1. ^ 30日に「藤島部屋」復活へ スポーツ報知 2010年9月29日閲覧

外部リンク