歌謡曲

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歌謡曲(かようきょく)は、日本ポピュラー音楽の総称、及びジャンルの一つ。ケースにより、いくつかの意味で使われるが、おおむね以下の意味である[1]

  1. ヨーロッパアメリカ合衆国などから日本に入ってきた日本国外のポピュラー音楽のうち、ジャズロックの影響の薄い、古い時代の楽曲。主にシャンソンで、これらを指す和名
  2. 広義としては、日本のポピュラー音楽全般のうち、歌詞のあるものを指す。この意味では、日本のポピュラー音楽(歌詞付)の総称として、演歌からロックに至るほとんどの楽曲が含まれる。
  3. 狭義としては、広義の分類からロック、フォーク、ジャズ、フュージョンといったものを外し、欧米色を薄め、「歌詞」に重点を置いた音楽を指す。具体的には、戦前から昭和20年代頃までの流行歌の他に、演歌やムード歌謡アイドル歌謡といったものが含まれる。これらには、クラシック的な歌曲、欧米の舶来のポピュラー音楽のカバー曲など、広いカテゴリーを持っている。一括りに演歌と見られがちな古賀メロディーも、その初期はマンドリン・ギター音楽の研鑽から作られたものが多く、洋楽調の曲であった。
  4. 最狭義としては、狭義の分類から更に演歌等を除外し、演歌とポップス(流行路線)との中間的な曲調のポピュラー音楽を呼ぶ。

大意

歌謡曲とは、本来1の意味で用いられていたものである。それを昭和初期に2の意味でNHKが使いだし、欧米から新しい音楽が流入してきた後に3の意味で用いだした。平成に入り、日本の大衆音楽(歌詞付)の総称をJ-POPと呼ぶように変わってからは、演歌とポップ(流行路線)の中間的な楽曲のジャンル名として4の意味で用いられるようになった。

なお、1990年代以降における歌謡曲の分類においては、1960年代以降に隆盛した感傷的な側面の目立つ演歌に矮小化され、狭義における歌謡曲は、演歌と混同されがちであるものの、本来はあくまで西欧のクラシックやポピュラー音楽の日本における派生形である[2]。逆に演歌サイドから見た場合には「ひたすら耳に快感を与える」音楽といった説明がなされることもある[3]

戦後においては、歌謡曲という言葉を生み出したとされるNHKの歌の系譜が不当に軽視される傾向が強いが、その理由について藍川由美は「NHKが戦後、戦時中の音楽をタブー視し、『國民歌謠』から『國民合唱』の歴史を回顧しようとしないことが大きいだろう」と述べている[4]

その後、商業的な理由により、演歌の愛好者層と重なる一部の歌謡曲を演歌と一体的に扱うために、『演歌・歌謡曲』というジャンルが考案された。その結果、演歌と歌謡曲が同一視され、歌謡曲が演歌と同義に捉えられてしまうばかりでなく、歌謡曲でありながら『演歌・歌謡曲』として扱われない楽曲が出るといった弊害を生んでいる。

日本における歌謡曲の歴史

日本では元々「歌謡曲」はいわゆるクラシック音楽の歌曲を指していた。藤山一郎淡谷のり子らの本職ともいえるジャンルの音楽である。「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされる。戦前のNHK放送の番組である国民歌謡は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、ラジオ放送によって公共的に大衆に広めるべき音楽の追求という目的があった[5]。しかし、国民歌謡は当初の目的から外れ軍事利用されだし、戦時中の音楽は戦時歌謡軍国歌謡と呼ばれ、現在の「歌謡曲」と繋がりがありながらタブー視される傾向が強い。戦後になって当初の目的の再現のためラジオ歌謡として再開する。

戦後「歌謡曲」という用語は一般的に使われ続けるが、特にジャンルとして「歌謡曲」といった場合は1950年代後半の日本が高度経済成長にあった時の音楽を指すことが多い。これは即ち藤山一郎の引退(1954年)以降に流行歌から春日八郎の『お富さん』(1954年)及び『別れの一本杉』(1955年)のヒットなどが発生し後に演歌と呼ばれる流れの源流が生まれた時期である。

この際、一方では曲調からは演歌ともいえず、むしろラテン、ハワイアン、ジャズなどの洋楽的要素を取り入れて、大人の雰囲気を漂わせたような、フランク永井石原裕次郎ムード歌謡が一世を風靡した。これらの音楽は現在「昭和歌謡」などと呼ばれたりする。

1950年代後半、上記のムード歌謡などの例外を除き、事実上「演歌か洋楽か」の二者択一であった日本の歌謡曲のジャンルの多様化がついに始まった。ザ・ピーナッツの『可愛い花』(1959年)が多ジャンル化の契機とされている[6]。この曲は日本における本格的なポップ・ミュージック曲として話題となり、日本の歌手が歌唱するポップス曲は「和製ポップス」とも呼ばれるようになった[7]

また、1960年代に入るとカラーテレビに媒体が変わりテレビにおけるプロモーションを重視した「テレビ歌謡」が発展していくことにもなるが、この頃には演歌の歌唱法と比較した場合に感情表現が少なめな音楽として歌謡曲という用語が用いられている。

歌謡曲の多ジャンル化は1960年代中頃に弘田三枝子によってリズム・アンド・ブルースと言う新たなジャンルも始まり、これを契機に歌謡曲のジャンルの多様化が本格化することになる。多ジャンル化は高度経済成長期末期となった以降も続き、1972年頃からはニューミュージックがテレビ出演を拒みながら歌謡曲と一線を画しながら発展していく一方、アイドル歌謡の流行も始まる。

1970年代も後半になると、歌謡曲の中からも英語歌詞の影響を受けたような本来の歌謡曲にはなかった発音の音楽が生まれ出し、1980年代になると徐々に音楽的には歌謡曲からアイドル系の音楽は外れていく。また、1989年に歌謡番組であった「ザ・ベストテン」が終了し、その頃を境に媒体の消滅により歌謡曲という用語自体が使用されなくなっていく。

1990年代初めにビーイングブームが発生し、歌番組における露出が控えめな歌手でも売上が伸びる現象が起き、「J-POP」などの言葉が流布された結果、「歌謡曲」という言葉はあまり使われなくなった。それゆえ、昭和の終わりとともに歌謡曲というジャンルが無くなったという俗説もある一方、流行の曲調ではなく、1990年代以前の広義での歌謡曲のような楽曲を歌い、売上を伸ばすKinKi Kidsといった歌手の登場や、カバーの流行により、J-POPの中における歌謡曲調なるものとして、かつての歌謡曲が見直されつつもある。

関連項目

出典・脚注

  1. ^ 英語版ウィキペディアの同記事によると、ジャパンタイムズは歌謡曲を「スタンダード・ジャパニーズ・ポップ(スタンダード化した日本のポップス)」または「昭和時代のポップス」と記述している。
  2. ^ 特集2. 日本の大衆音楽 (終)”. 東芝. 2009年5月31日閲覧。
  3. ^ 演歌から《演歌》へ パリから見る日本の演歌 1”. JASRAC寄附講座 (2002年10月21日). 2009年5月31日閲覧。
  4. ^ 藍川由美「NHK國民歌謠~ラジオ歌謡」を歌う”. 藍川由美公式HP. 2009年5月31日閲覧。
  5. ^ 読売新聞昭和8年7月7日「『歌謡曲』というから、シューベルトやブラームスのリード(歌曲)を放送するのかと早合点すると、そうではない。渋谷の姐さんが歌う流行歌であり、AK(現在のNHK東京)の当事者に理由を聞くと、何故か放送ではなるべく流行歌なる語を使いたくないそうだ」(仮名遣い等を一部現代語化、小学館日本国語大辞典「歌謡曲」の項にも掲載)これより、それ以前の「歌謡曲」の用法とNHKの意図がうかがい知れる。
  6. ^ NHK「歌謡スクランブル」2003年6月放送「ザ・ピーナッツ特集」での解説。
  7. ^ ただし日本でのポップ・ミュージック曲そのものは戦前にもごく少数事例はあったが、その当時はあまり話題に挙がらなかった。