柳生利厳

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柳生 利厳
時代 江戸時代前期
生誕 天正7年(1579年
死没 慶安3年1月16日1650年2月16日
改名 長厳(初名)→利厳
別名 兵助、兵庫助、茂佐衛門(通称
戒名 春光院殿閑叟如雲居士
墓所 妙心寺
幕府 江戸幕府
主君 加藤清正徳川義直
熊本藩尾張藩
氏族 柳生氏
父母 父:柳生厳勝
兄弟 純厳利厳、権右衛門
継室:島清興娘・珠
清厳利方厳包
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柳生 利厳(やぎゅう としとし/としよし)は、江戸時代初期の剣術家。大和国出身の武士。父は柳生宗厳(石舟斎)の長男・柳生厳勝。妻に島清興の娘の珠。通称は兵助、兵庫助、茂佐衛門。初名は長厳。号は如雲斎、四友居士など。伊予守(自称)。新陰流第三世。

祖父・石舟斎の薫陶を受けて剣術(新陰流)の奥義に達し、阿多棒庵より新当流槍術・穴沢流薙刀術を学んで皆伝を授かる。はじめ肥後熊本加藤清正に仕えたが致仕し、後に尾張徳川家に仕えた。尾張藩では藩主・徳川義直に剣術・槍術・長刀術を相伝するなど、御流儀としての新陰流の地位を確立し、現代まで新陰流を伝える尾張柳生家の礎を築いた。

生涯

生い立ち

天正7年(1579年)、大和国柳生庄において柳生厳勝の次男として誕生する。父の厳勝は領主・柳生宗厳(石舟斎)の長男で[注 1]、若年時から戦場にでて石舟斎を支えたが、銃傷を受けて身体に障害が残り、利厳誕生時はすでに隠居していたという[1]。そのため利厳は幼少期から祖父の膝下で育ち、兄・久三郎や叔父の宗矩宗章らと共に、祖父の剣(新陰流)を学んだとされる[4]

やがて 太閤検地で隠し田が発覚したことで柳生家は累代の所領が没収され、兄と叔父たちは他家に仕えて柳生庄を離れたが[注 2]、若年の利厳は弟・権衛門と共に柳生庄に残った。慶長2年(1597年)兄久三郎が朝鮮蔚山で戦死し、宗厳の嫡孫となる。22歳となった慶長5年(1600年)には関ヶ原の役があり、叔父・宗矩の活躍によって所領が取り戻されるが、その間も石舟斎は利厳を手元から離すことを許さず、修業に専念させていたと伝わる[4]

熊本藩仕官

慶長8年(1603年)、利厳24歳の時に加藤清正[注 3]の懇願により、500石を以て熊本藩に仕官する[1]。当初祖父・石舟斎は利厳の気性を案じて手元から離すのを渋っていたが、清正からの再三の要請を受けて「兵助儀は殊のほかなる一徹の短慮物にござれば、たとえ、いかようの儀を仕出かし候とも、三度まで死罪の儀は堅く御宥し願いたい」との申し出と共に了承し、『新陰流兵法目録事』と極意を示した和歌2首を授けて利厳を送り出したという[7]

しかし熊本藩では、出仕後1年足らずで同僚と争った末にこれを斬ったことで、退転して浪人となる[1][注 4]

同僚との争いの原因について、利厳の子孫である尾張柳生家では口伝として、当時領内で起こった百姓一揆において、鎮圧に手間取っていた伊藤長門守光兼の後任として利厳が派遣されたところ、総攻撃を主張する利厳に対して長門守が反対したためにこれを斬り捨てたとする話を伝えている[8]。長門守を斬った利厳はそのまま一揆勢に総攻撃を仕掛けて鎮圧し、清正に仔細を報告すると即日退転したという[8]。この他尾張柳生家には、熊本藩では内実は3000石をもって客分大将として遇されていたという口伝もあるともいうが[9]、後に加藤家が改易となったこともあって熊本時代の記録は残っておらず、いずれも真相は定かではない。

浪人時代

加藤家を退いてからの動向について尾張柳生家では、その大部分を武者修行として諸国遍歴に費やし、京都を中心に近畿、中国、北陸路あたりを巡ったという口伝が伝わっている[10]。一方尾張藩に伝わる史料を元に編纂された『名古屋市史』[注 5]では、父祖存命のうちは故郷である柳生庄に隠遁していたともあり、また福島正則から2千石で召し抱えたいとの申し出があったが、清正の旧恩を理由に応じなかったという話も伝える[1]

加藤家を致仕した翌年の慶長9年(1604年)、石舟斎から皆伝の印可を授かり、さらにその翌年には石舟斎自筆の目録『没慈味手段口伝書』に大太刀一振りと流祖・上泉信綱から石舟斎に与えられた印可状・目録の一切を併せて授与される[11]

慶長11年(1606年)、祖父・石舟斎が死去。尾張柳生家に伝わる口伝では、家督と先祖代々の本領2000石は利厳の父・厳勝が相続し、利厳には父から旧領の神戸の庄を中心に500石余が譲られたため、その収入を元にして、その後も供を引き連れて裕福に諸国巡遊の旅を続けることが出来たと伝えている[12]

それに対し『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』では石舟斎の跡は叔父・宗矩が継いだとされ[13]、石舟斎が死の7年前の慶長4年(1599年)時点で記した遺書でも宗矩に財産を与えるよう指示していることなどから[14]、石舟斎の死後は宗矩が家督を継ぎ、利厳は叔父の庇護下にあったものと見る向きもある[15]

その後、熊野に隠遁していた兵法家・阿多棒庵を訪ねて新当流槍術ならびに穴沢流薙刀術を学び、慶長14年(1609年)9月にそれぞれ皆伝印可を受ける。この時棒庵は自身が師・穴沢浄見から得た印可状も利厳に授与しているため、尾張柳生家ではこれらを「唯受一人」の印可として、新当流長刀・槍一流の宗は穴沢浄見、阿多棒庵から第七世として利厳に受けつがれたとしている[16]

尾張徳川家指南として

元和元年(1615年)36歳の時、尾張藩御附家老成瀬隼人正の推挙を受けて[17]徳川家康の子・義直の兵法師範として500石で仕える[1][注 6]

尾張柳生家の伝承によると推挙を受けた家康は、利厳を駿府に招聘して直々に対面した上で、義直の師範となるよう要請したといい、これを受けて利厳は「江戸の但馬(叔父・宗矩)とこと違い、諸役の御奉公は一切御免蒙り、替え馬一頭もひける身分ならでは、御仕官の儀は堅く御免蒙りとう存じます。」との条件を示し、家康はこれらを認めて義直の兵法師範としたという[18]

尾張藩に仕えて5年後の元和6年(1620年)、義直に新陰流の剣術および新当流の槍、長刀の印可を授与する[注 7]。この時利厳は自己一代の工夫考案書である『始終不捨書』の奥書に印可を添え、自身が祖父と師・棒庵から受け継いだ印可状、伝書、目録、大太刀の一切と共に義直に進上した。また後に流儀の後継者となる次男・厳包が印可を相受ける際には、義直から相伝を受ける形式を取らせたことで、流派の継承は代々尾張藩主と柳生家が協力の元で行うことが慣例となり[19]、尾張藩「御流儀[1]」としての新陰流の地位は不動のものとなった。

晩年

慶安元年(1648年)、70歳で隠居して如雲斎と号し、隠居領300石を拝領する[1]。家督は次男の利方が継承し、藩主の嗣子・光友の指南は三男の厳包が引き継いだ[注 8]。隠居後は京都の妙心寺塔頭麟祥院に柳庵と呼ぶ一草庵を建てて暮らし、同寺の住職を務める霊峰和尚[注 9]と親交を深めた。『霊峰和尚語録』によると柳庵での利厳は千草万木(あらゆる植物)を愛し、いつも銅製の瓶に水を溜め、花を盛って側に置いていたという[20]。隠居から2年たった慶安3年(1650年)、妙心寺で死去。享年72。遺体は晩年を過ごした塔頭麟祥院に葬られた[21]

逸話

  • 尾張徳川家に仕えた利厳の子孫(尾張柳生)と江戸の将軍家に仕えた叔父宗矩の子孫(江戸柳生)は江戸時代を通じて交流が無かった[22]。両家の断交は利厳と宗矩の不和から始まったとされ、尾張側の記録である『名古屋市史』では、父・厳勝の死後に宗矩が所領を独占したことを原因としており[1]、一方の江戸柳生の記録[注 10]では、利厳の妹が最初の夫と離縁したため、宗矩が引き取って家臣の佐野(柳生)主馬と縁組したものの、この再婚について兄である利厳に事前の相談がなく、また主馬が朝鮮の出身だったこともあって、利厳が激怒したことを原因としている[23]
  • 18世紀後半に著された『兵術要訓』にある逸話に、宮本武蔵が尾張を訪れた際、城下で利厳とすれ違い「久々にて活きた人を見た。あなたは柳生兵庫(利厳)ではないか」といい、利厳は「そういうあなたは宮本武蔵ですね」と答えたというものがある。武蔵は利厳の屋敷に滞在して共に酒を飲み、囲碁を打ったが、互いに剣術を見せることはないまま別れたという[24]
  • 尾張柳生家には新陰流の一子相伝の正統は流祖上泉信綱から柳生宗厳にそして利厳へと譲られたという伝承があり、その中では上泉から数えて新陰流第三世とされる。ただし本当に宗厳が上泉より新陰流の道統を譲られたかや、宗厳に「一子相伝」や「正統」という概念があったかについては疑問視する向きもある[25]

著作

『始終不捨書』(著作年月日不詳[26]
太平の世に対応すべく自身が打ち立てた「今」の教えについて記した利厳一代の工夫の書[27]。石舟斎の教えの内、従来のやり方では時代にそぐわなくなった部分について「昔の教悪」として弊害を記し、代わって自身が工夫した新しい方法を「今の教」として全68項目にまとめて列挙している。
その内容は多岐に渡り、中でも重心を低く構える「沈なる身」を否定し、重心を高く自然体に構える「直立の身」を推奨したことは、甲冑を着けて斬りあう「介者剣術」から普段着で使う「素肌剣術」への転換として評価されている。ただし利厳以前の新陰流でどの程度「沈なる身」が厳守されていたのかや[注 11]、この重心の変化が甲冑の有無を意識したものなのかについては異論もある[注 12]
徳川義直に印可を認めた際に授与され、以後流派の後継者に代々継承された。

柳生利厳の登場する作品

小説

漫画

演じた俳優

映画

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 尾張藩の史料をもとに編纂した名古屋市史では 浮田和泉守に400石で仕えたとし[1]、江戸柳生家の記録である『柳生藩旧記』では筒井氏に仕えたとするが[2]元亀2年(1571年)に戦場で負傷した際には松永久秀に属して筒井氏と戦ったという[3]
  2. ^ 兄・久三郎は浅野幸長の下で慶長の役で朝鮮に渡り当地で戦死する。叔父・宗章は小早川氏に、宗矩は徳川氏にそれぞれ仕えているが、柳生家の所領が没収された時期は不詳で、彼らの仕官との前後関係は明らかではない[5]
  3. ^ 石舟斎と親交があった島清興の紹介と伝わる。[6]
  4. ^ 『名古屋市史』所載『尾州諸系家系図集』ではよんどころない子細とある。
  5. ^ 人物編・利厳の項は『士林泝洄』、『昔咄』、『諸士傳略稿』、『武業雑話』、柳生氏聞書を元に書かれる
  6. ^ 隼人正とは利厳の禅師・海山珠和尚との道縁により、若年時からの知己であったという[17]
  7. ^ この印可については、義直の修行期間がおよそ5年と皆伝に至るまでの期間としてはごく短期間であることから、形式上のものではないかという意見もある。
  8. ^ 長男である清厳は寛永15年の島原の乱において戦死している。
  9. ^ 徳川2代将軍徳川秀忠の指南役を務めた一刀流の剣術家小野忠明の甥にあたる。
  10. ^ 『玉栄拾遺』、『柳生藩旧記』など
  11. ^ 戦闘中の姿勢について記した「位五大事」について、利厳の祖父・石舟斎と叔父・宗矩の伝書の内容を比較すると、宗矩の伝書には石舟斎のものにはあった「身を沈にして」など、重心を低く保つよう指示する箇所が削除されており、利厳にさきがけて宗矩に代表される江戸柳生でも「沈なる身」からの脱却があったとする意見もある[28]
  12. ^ 利厳自身は沈なる身を推奨する「位五大事」を否定した理由として「身堅マリツマル故也(身を堅く強ばらせる)」として、介者剣術との関わりでは否定しておらず、また「沈なる身」をそのまま伝えたとされる江戸柳生系の伝書でも、この教えの実戦的な利点として必ずしも介者剣術のみを想定したものを挙げていない[29]

出典

参考文献

  • 名古屋市役所『名古屋市史人物編 下巻』国書刊行会、1934年。 
  • 柳生厳長『正傳新陰流』大日本雄弁会講談社、1957年。 
  • 高柳光寿『戦国の人々』株式会社新紀元社、1962年。 
  • 今村嘉雄編輯『史料 柳生新陰流〈下巻〉』人物往来社、1967年。 
  • 松本隆行『新陰流「位五大事」に関する考察』武道学研究 29、1990年。 
  • 加藤純一『素肌剣術期における新陰柳生流の勢法に関する研究』武道学研究22-(3),23、1990年。 
  • 今村嘉雄『定本 大和柳生一族―新陰流の系譜』新人物往来社、1994年。 
  • 相川司、伊藤昭共著『柳生一族』株式会社新紀元社、2004年。 
  • 赤羽根龍夫、赤羽根大介共著『武蔵と柳生新陰流』集英社、2012年。 
  • 赤羽根龍夫『柳生新陰流 歴史・思想・技・身体』スキージャーナル株式会社、2017年。 
  • 『寛政重修諸家譜 17巻』続群書類従完成会、1962年。