板野友造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。曾禰越後守 (会話 | 投稿記録) による 2016年3月23日 (水) 06:43個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (生年月日加筆)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

板野友造

板野 友造(いたの ともぞう、1874年明治7年)5月18日[1] - 1945年昭和20年)12月12日)は、日本の政治家弁護士衆議院議員

来歴・人物

岡山県吉備郡足守町(現在の岡山市北区)で生まれる。関西法律学校(現在の関西大学)を卒業後、明治法律学校(現在の明治大学)に学び、1901年に卒業した。同年、判検事試験に合格し、司法官試補として高松区裁判所に赴任するが、半年で辞した。1902年より大阪市で弁護士を開業。

1913年、大阪市会議員に選出され、副議長を務めた。1920年1月、衆議院に補欠当選。以後、当選回数は合計5回を数えた。当初は立憲国民党所属であったが、立憲国民党解党後は革新倶楽部を経て立憲政友会に参加した。

黙れ事件

1938年3月3日国家総動員法の審議において同法委員であった板野は議会を代表して質問に立ち、塩野季彦法相らの曖昧な答弁に対して執拗に食い下がり、「誰でも良いからわかっている人が出て説明してくれ」と求める。そこで説明員として答弁したのが佐藤賢了陸軍中佐であり、この説明に対して野次を飛ばした宮脇長吉が佐藤に「黙れ!」と怒鳴られるといういわゆる「黙れ事件」が起きた。板野は自ら説明を求めておきながら佐藤の発言を議会軽視として問題視し、塩野季彦法相に政府の責任を認めさせるに至って委員会は紛糾した。しかし翌日杉山元陸相が陳謝すると議会は沈静化し、その後国家総動員法はすんなりと可決された。

脚注

  1. ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、3頁。

参考文献

  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『天皇』 児島襄 カゼット出版 2007年 ISBN 4434101455
  • 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、54頁)