川原袈裟太郎
川原 袈裟太郎 かわはら けさたろう | |
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生誕 |
1870年1月12日 日本 肥前国 |
死没 | 1933年9月6日(63歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1892年 - 1923年 |
最終階級 | 海軍中将 |
墓所 | 多磨霊園[1] |
川原 袈裟太郎(かわはら けさたろう、1870年1月12日 (明治2年12月11日) - 1933年9月6日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
肥前国(現在の佐賀県)出身。川原道種の三男として生れる。攻玉社を経て、1890年7月、海軍兵学校(17期)を卒業し、1892年5月、海軍少尉任官。
日清戦争では「大和」乗組として出征した。第2水雷艇隊付、砲術練習所分隊士を経て、水雷術練習所で学んだ。佐世保水雷団、「扶桑」分隊長、水雷術練習所教官、「秋津洲」水雷長、海兵教官、軍令部出仕、「鎮中」艦長、軍令部第3局員、ロシア出張などを経て、ロシア駐在となり1904年1月、中欧・ポートサイド諜報任務に従事。「浅間」分隊長を経て、日露戦争には第3艦隊参謀として出征し、大連湾防備隊参謀となった。
「沖島」副長、第2艇隊司令、伏見宮博恭王付武官、軍令部参謀、「鹿島」副長、「鈴谷」艦長、ロシア大使館付武官、「日進」「伊吹」「摂津」の各艦長などを歴任し、1916年12月、海軍少将に進級した。海軍水雷学校長、兼海軍砲術学校長、第5戦隊司令官などを経て、1920年12月、海軍中将となった。以後、将官会議議員、第2戦隊司令官、旅順要港部司令官を勤め、1923年3月、予備役に編入された。
邸宅
川原は1923年に、東京府豊多摩郡杉並町(現在の東京都杉並区)荻窪に、桜井小太郎設計により私邸を建てた。その川原邸は第二次世界大戦にも耐え、終戦後に歯科診療所となって2002年まで現存していた[2]。
栄典
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[3]