島田療育センター

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島田療育センター(しまだりょういくセンター)は、東京都多摩市にある重症心身障害児施設である。日本初の重症心身障害児対象の施設である。また医療法による病院でもある。

沿革[編集]

1961年(昭和36年)「島田療育園」として開設。 初代園長は、小林提樹(こばやし・ていじゅ)[1][2]である。

開設にあたっては、電源開発元総裁の内海清温が募金集めに奔走し、1,500万円の寄付を集めた。用地の確保にあたっては、日本遊技場組合(現・日本遊技関連事業協会)の元組合長である島田伊三郎が、自身の子どもが重度のてんかん発作を伴う知的障害だったこともあって尽力した。

1956年(昭和31年)、千葉県八千代台に候補地を見つけたが、障害児施設である点がネックとなり頓挫。結局、現在の施設がある南多摩郡多摩村(当時)に用地を確保した。当時の児童福祉法では、重症障害児は対象外だったため、社会福祉法人ではなく、寄付に対する免税措置のない財団法人としてのスタートになった。その結果、寄付が集まりにくくなり、慢性的な財政難を抱えることになった。

1964年(昭和39年)、自身も障害児の娘を抱える作家の水上勉が、雑誌『中央公論』の誌上に「拝啓、池田総理大臣殿、」と題して法的な障害者保護を訴える手記を発表する。これが反響を呼んで、1967年(昭和42年)から、重症障害児が法的に保護されることになり、補助金も拠出されるようになった[3]

東京の南多摩郡多摩村落合中沢というところに、島田療育園という重症心身障害児の収容施設があります。ここには約50人の盲、オシ、ツンボ、精薄、脳性マヒ、テンカン、奇形などの障害を、一身でいくつも背負っているかわいそうでみじめな子供が収容されています。こうした子供さんたちは、ダブル・ハンディキャップといわれて、人一ばい手がかかるために、一般の児童福祉施設や精薄児や盲、ロウアの施設などからしめだしをくったのです。ところが、ひとりの篤志家の決意によって設けられたこの施設に収容されることになったのです。「世の中には、重症心身障害の子を家にかくしてひそかに育てている人たちが、何万人いるだろう。むかしのように座敷牢に入れたり、まるで飼い殺しにするような状態から、何とかしてその子たちを救いたい」念願からこの療育園は出発したのだと園長はいっています。(略)

ところがこの島田療育園に、現在まで政府が、どのような援助をなされたか、私が調べたところによりますとだいたい、次のようになります。昭和35年度4百万円。37年度6百万円。それだけであります。現在この療育園で、一児につき実費36万円かかるそうです。現在では合計2千7百万円の実費のかかる収容児をもっていますが、政府補助は、わずかに全費用の2割にしかなりません。療育園ではこの不足分をどうしておられるかというと、募金などに頼っているとの返答です。(略)

総理大臣。私は、あなたに私の泣きごとをかいてみたかったのではありません。私は重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの2割しか補助を行っていないことに激怒したからです。政府が、今日までに、あのオシヤ、ツンボや、盲やかわいそうな子供たちが、施設からしめ出しをくって、収容されている療育園に、これまで助成した金は、2年間にわたってたったの1千万円でした。36年度に4百万円、翌年に6百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年1年におさめる税金の1千百万円よりも少ないのです。私は、私の働いた金が、この島田療育園の子らにそそがれるのであったら、どんなに嬉しいかしれません。私ひとりの子でなく、私の子とおなじように歩けない子らの上に、そそがれる金であったら、私はどんなに嬉しいかわかりません。(略) — 水上勉「拝啓、池田総理大臣殿、」 [4][5]

この年、小林提樹は日本医師会最高勲功章を受賞した。

1965年(昭和40年)、秋田県の障害児童が当院への入所を希望しながら要員不足のためにそれが実現しない実状が、秋田魁新報で報じられる。これをきっかけに、秋田県から10- 20歳代の女性15人が要員として就職する[6]。翌年以降も秋田からの就職は続き、1967年には彼女たちを取り上げた『おばこ天使 ある青春・重度障害児と共に生きる』(藤原陽子、文芸市場社)という書籍が刊行され、ロス・プリモス倍賞美津子の歌唱で「おばこ天使の唄」という歌(作詞・藤原陽子)も日本クラウンから発売された。彼女たちはその後、秋津療育園、東京小児療育病院、大阪の枚方療育園にも就職するようになった[7]

1975年(昭和50年)、飛田茂雄稲葉吉春清水栄次郎らが中心となり、13名の有志で「島田療育園を守る会」が発足。

2012年(平成24年)からは「児童福祉法による医療型障害児入所施設」(18歳未満)と「障害者自立支援法による療養介護」(18歳以上)の2つの機能を併せ持ち、重症心身障害児とそのような障害を持った大人のケアと生活の支援を行なっている。

アクセス[編集]

参考文献[編集]

  • 日本心身障害児協会島田療育センター 『愛はすべてをおおう―小林提樹と島田療育園の誕生』中央法規出版 2003年
  • 小沢浩『愛することからはじめよう―小林提樹と島田療育園の歩み』大月書店 2011年

脚注[編集]

  1. ^ 日本心身障害児協会島田療育センター『愛はすべてをおおう: 小林提樹と島田療育園の誕生』中央法規出版 2003年
  2. ^ 小沢浩『愛することから始めよう 小林堤樹と島田療育園の歩み』大月書店 2011年
  3. ^ 日本初の重度心身障害児施設を支えた人々 - 日本遊戯関連事業会
  4. ^ 水上勉先生を悼む - 社会福祉法人太陽の家
  5. ^ 水上勉監修『中村裕伝』中村裕伝刊行委員会 p.120-122
  6. ^ きびしい"天使の道"につくす - 秋田県広報誌「あきた」通巻38号(1965年7月1日)
  7. ^ 『秋田魁新報120年史』1995年 p.810

外部リンク[編集]